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酒井正兵衛(正三郎)先生を偲ぶ No.15
2012年12月26日 佐藤 治
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■経 歴・教え子
1901年岐阜市生まれ、父正兵衛は山林地主。岐阜中学
を経て東京商大予科・本科卒業、経済哲学の左右田喜一郎
に師事。1922年横浜社会問題研究所主任研究員、19
25年名古屋高商講師、保険学・経済史講座、1926年
産業調査室併任、1928年教授、経済政策総論講座、1
939年産業調査室代表併任、1949年第5代名古屋高
商校長(1951年閉校)、1949年名大法経学部長、
1950年新制名大経済学部長、1964年退官、同年南
山大学教授、1981年死去(享年81歳)。
研究分野 経済構造変動理論、社会科学一般理論
影響を受けた人物 左右田喜一郎、ゴットル、ヒックス
タルコット・パ−ソンズ
友人(大学) 中山伊知郎、赤松要、宮田喜代蔵、
山田雄三、塩野谷九十九、大来佐武郎、
大熊信行、板垣与一、高島善哉
業績 日本に経済・社会構造論、経済政策学・
地域開発論を導入
教え子 小島清(一橋大)、山田勇(一橋大)、
建元正弘(京大)、片野彦二(神戸大)
小出保治(岐阜大)、北川一雄(名大)
碓氷尊(筑波大)、沼田善夫(新潟大)
飯田穆(名大)、藤井隆(名大)他
経済人多数
その他 日本学術会議員、地域問題研究所代表
各種審議会委員、元国鉄監察使
勲二等瑞宝章、従三位
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■著 書(単著)
・杉村廣蔵氏「経済哲学の基本問題」 (192 )
・社会生活の進化と経済学 (192 )
・英国農業革命史論 (192 )
・英国産業革命史論 (192 )
・続英国商業進化史論 (192 )
・英国第二産業革命史論 (192 )
・経営経済学の基礎理論 (192 )
・我が国羊毛工業の現勢と特に中小毛織工業問題
(192 )
・再保険研究 (1928)
・他に経営学、海上保険等に関する著作7冊
(1920年代)
・経済形態学 H,シャック著 酒井訳 (1930)
・保険経営学:特に海上保険に関して (1934)
・保険経営学の根本問題 (1935)
・経営技術学と経営経済学 (1937)
・保険経済学 (1939)
・現代企業理論 (1940)
・経営学及会計学 (1941)
・国民経済構造変動論 (1942)
・経済的経営の基礎構造 (1943)
・アメリカ経済の構造 (1946)
・経営者社会の理論と構造 (1948)
・国民経済構造の基礎理論 (1949)
・経済の社会的構造:経済学入門
J,R,ヒックス著 酒井訳 (1951)
・経済構造理論への途 (1952)
・経済体制と人間類型 (1953)
・経済変動の理論
B,S,ケアステッド著 酒井訳(1953)
・経済成長の過程 W,W,ロストウ 著 (1955)
酒井・北川一雄共訳
・経済構造変動の理論 (1956)
・The theory of structural change (1956)
of national economy
・日本経済の成長と循環 (1960)
・社会科学一般理論 (1962)
・経済構造と経済政策 酒井正三郎博士還暦
記念論文集 塩野谷九十九編 (1963)
・成長理論と構造理論 (1963)
・経営学方法論 (1966)
・経済政策論ノ−ト (1967)
・社会システム論:ソシアル・システムズ・アカウンテ
イングの展開 B,M,グロッズ著 酒井訳(1969)
・現代大都市論(1)大都市問題の諸相 (1973)
・現代大都市論(2)大都市住民と最適環境 (1973)
・日本経済の構造:経済学入門
J,R,ヒックス著 酒井監訳 (1976)
・社会の分析的理論:タルコット・パ−ソンズン
の著作における (1977)
・巨視的社会理論の構築 (1981)
・遺稿 酒井正生、藤井隆編 (1981)
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著 書(共著、編著)
・神野新田 酒井正三郎・小出保治共著(1952)
・国鉄貨物輸送より見た管内産業の実態 (1958)
・愛知用水と地域開発 (1964)
・住宅建設計画の方法論的研究 (1966)
〇上記のうち「経済の社会的構造:経済学入門」は重版
を重ね、「経済成長の過程」、「経営学方法論」は2版
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■業 績
・東京商大では左右田ゼミに入り経済哲学を専攻。卒業後
恩師創設の横浜社会問題研究所で研究・資料分析に没頭。
カント、新カント派、フッサ−ル、マルクス、マックス・
ウエ−バ−等を研究、西田哲学を批判する恩師を支えた。
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・哲学一般に傾斜する経済哲学では新しい経済学の構築は
困難と悩む。家督相続(正兵衛を襲名)の関係もあり、
1925年新設間もない名高商へ移り、経済史、保険学
を講じる。産業革命、保険学関係の著作を相次いで刊行。
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・1926年欧米留学から戻った赤松要教授の下で、ハ−ヴァ
−ド大のケ−スメソツドにヒントを得て新設された
産業調査室(現在の国際経済政策研究センタ−)併任と
なる。赤松所長、宮田喜代蔵教授等とともに本邦初の重
要産業調査・分析に従事、またペンロ−ズ講師の協力を
得て同所で「名高商生産数量指数」をまとめ世界的に認
められる。同時に景気循環の実証的研究も進められ、名
高商の名を高からしめた。赤松教授の偉大な功績として
特筆大書される。
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・1928年教授となり経済政策総論を担当。1939年赤松教
授離任に伴い第二代産業調査室所長となり、調
査研究をリ−ド。再三の海外留学機会を実家の事情から
断念。1930年代には経営学、企業論を考究、194
0年代は経済構造理論を模索、毎年のように成果を上梓
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・戦後はヒックスの名著「ソ−シャル・アカウンテイングの翻訳
を契機に、積極的に経済構造理論、経済変動論、
経済体制論の研究を進め、40年代後半から50年代に
かけて著書、訳書を相次いで出版。「経済変動の理論」、
「経済体制と人間類型」、「経済構造変動の理論」、「経済
成長の過程」等の代表著作は、われわれ同期生の在学期
を挟んで刊行されている。
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・1963年の還暦記念論文集「経済構造と経済政策」刊行を
契機に、成長理論と構造理論の融合、地域開発理論
(実証)の研究、経済学を包摂した社会科学一般理論の
構築に腐心。「社会科学一般理論」、「成長理論と構造理
論」、「現代大都市論」、「社会の分析的理論」他多数出版。
病床で書きあげた「巨視的社会理論の構築」が遺著とな
った。書き下ろし中の原稿は「遺稿」としてご子息の手
により没後出版された。
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◎学者として活躍された期間 57年(1925〜1981)うち
名高商・名大経済学部で活躍された期間 40年
(1925〜1964)
著作刊行数49冊、編著作数4冊、その他論文多数
(出版社:岩波書店、東洋経済新報社、同文館)
( 森山書店、巌松堂、日本評論新社)
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■酒井ゼミ
・全9名、真面目勉学派5、単位取得目的派(自称)4
・大学院生2名も出席・助言、一寸うるさかった。
・3年時は英書購読、カルドアの「景気循環論」を輪読、
ヒックスの非線形景気循環論の延長線上にあり難解で
皆手古摺った。先生からはスミス、ケインズ、マック
ス・ウェ−バ−、シュンペ−タ−を確り読むようにと
よく言われた。
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・4年時は各自準備中の卒論発表と全員討議。討議は白
熱化してよい刺激に。先生からはご自身の新刊書につ
いてよくお話を伺い、非常に勉強になった。
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・先生は要所でピシリと発言するが、学生同士の討論を重
視。煙草を寸時も手離さず、遣り取りを面白そうに観察。
時間に無頓着で3時から9時までが普通、空腹との戦
い、終って角のウドン屋に飛び込むのが通例に。
冬は用務員さんが炭火を入れてくれたが、灰になっても
ゼミは終らなかった。2年間のゼミの総時間数は断トツ
の筈。よい想い出に。奥さまが主人は時間音痴で皆さん
もお気の毒だとよく仰っておられた。
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・家督を継がれて正兵衛を襲名。学界では正三郎で通され
た。ゼミナリステンは親しみをこめて正兵衛さんと呼んでいた。
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・ゼミ旅行は志摩と稲武町へ。稲武町では先生昵懇の大山
林地主古橋さんから厚遇され、明治維新の志士の面
倒を随分みた件を面白おかしく拝聴した。
また、道中、先生から普段は聞けない話をたっぷり聞
き、人生・就職相談も。先生は顔も広く就職の面倒見
は最高であった。私は興銀を勧められたが断り叱られ
た。大野君は紹介で決まった先を後で断り叱られなか
ったのは不可解であった。
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・先輩に優秀な人が多く、よく紹介されてお会いし、人生勉強
・先生の影響を受けてか卒論のテ−マに経済構造分析を選
ぶ人が多かった。大野君のクズネッツ(国民経済計
算)、伊東君のヒックス(景気循環論)、高野君の日本
経済分析、佐藤のレオンチエフ(産業連関論)等々。
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・先生はマックス・ウェ−バ−とシュンペ−タ−は経済哲学
の源流、新カント派の左右田経済哲学が加わって
新しい経済哲学の創造が何れ必要になるのではないか
と呟かれたことがある。
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・卒業時には、先生が敬愛するカントの今はの際の箴言
■人となり
・温厚篤実、謹厳実直、学者を絵に描いたような人柄であっ
た。一見気難しそうで、人見知りされるところもあっ
たが、弟子や友人を大切にし、家族に愛情を注がれ、お
孫さんには目がなかった。
健康に恵まれ、テニスを能くされた。伊東君の妹さんや
田辺君がよくお相手をしていた。将棋も強く、上野先生
や恒川君が好敵手であった。学内切ってのヘビ−スモ−カ
−で人をケムに巻いていた。
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・とに角、名高商、名大に全生涯を捧げられた訳で、郷土、
名大をこよなく愛された。不退転の決意で臨まれた名高
商から名大経済への移行は先生なかりせば実現しなかっ
たのではないか。
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・人脈は広く深かった。よく人の面倒を見られた。“桃李言わ、
ざれども下自ずから蹊を成す“の観があった。特に中山伊
知郎、赤松要、宮田喜代蔵、大来佐武郎の四氏とは肝胆相照
らす仲であった。弔辞は先生が学位論文の審査をされ、地
域開発問題で交流の深かった大来佐武郎氏から捧げられた。
塩野谷先生鏤骨の還暦記念論文集は先生の宝物であった。
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■こぼればなし
・若いときに家庭の事情から留学を断念されたことを大変悔
やんでおられた。それだけに1953年央から半年間の学
術交流留学をとても喜んでおられた。若い諸先生には万難
を排して留学・他流試合をするよう説かれていた由。
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・名高商前任者のG,C,アレン教授とは終生親交が深かった。
よく来日されたが、先生がよく面倒を見ておられた。先生
に頼まれてアレン先生をトヨタの工場見学にご案内、大層
喜ばれ、爾後の英国出張ではよく会食・懇談した。
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・授業は難解で講義も決してうまくない、しかし書かれた本
には汲めど尽きせぬ味がある、問えば懇篤に指導してくれ
る−そんな先生であった。奥さまも気さくな方で、貫録十
分、ゼミ生を大切にされた。
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・よくも悪くも経済学部教授会のドンであった。しかし、そ
の人脈によって多くの俊秀を教師として名大に招き入れ、
教授陣を充実させたこと、“学者は論文を書け、本を出せ”
と口を酸っぱくして説かれ、率先躬行されたこと、この二
つの事実をもって経済学部が生んだ最高の学者であったと
思うのである。
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・後任に教え子の建元正弘先生を考えておられたが、京大の
青山教授に懇請されて叶わず、碓氷尊氏には留学先のMIT
卒業のトラブルで機会を逸し、結局中山教授の秘蔵つ子であ
った藤井隆氏に後を託すことになった。藤井教授は立派に衣
鉢を継がれ、酒井経済政策学を継承・発展に導かれた。
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