一最後の旧制中学生一


2014年8月15日  宇野 昭


終戦時、国民学校6年生だった私たちは、翌昭和21年旧制 中学に入学したが、次年度から新しい6‐ 3‐3制が敷かれて新 制中学が創設され、旧制中学は新制高校に衣替えした。
そのため、私たちは新制高校併設中学の生徒という変則的な 立場に追いやられ、以後下級生の来ない学校生活を続けて卒 業とともに母校は消滅した。

さらに、新制高校への入学に際しては、占領軍軍政部の強圧 により、教育の平等化の美名の下、県立市立を問わず全ての 高校への入学を小学校の学区で振り分けるという暴挙(?) が行われ、私は光輝ある県立一中に入学しながら、戦時中に 新設された市立中学の後身である市立高校への転入学を余儀 なくされた。確かにその後暫くの間は学校差が薄まったが、 当時の私たちにとつては正に青天の霹靂、無念の思いは長く 胸底に幡つた。

以上のような数奇な運命に弄ばれた私たちだが、自由と自治、 蛮からと反骨、上下級の峻別など良きも悪しきも旧制中学の 風習を色濃く残した二年間の生活は、住宅難や食糧難などの 戦後の混乱期の中で唯一明るく心豊かな思い出の一ページと して残つている。
70年近くも経ち記憶も定かではないが、思いつくままに当時 の生活の断片を綴つてみたいと思う。

           “旧制中学最後の入試"

中学入試に当たつては、小学時代の学力成績に応じて県立中 学組と市立中学組にグループ分けされたが、当時の入試が内 申書中心だったことから、学校としては妥当な対策だったの だろう。
ただ、県立中学組の入試は、岐阜市内にあつた県立一中と県 立三中の合同で行われ、合格者の各校への振り分けは小学校 の学区に依るとされていて、個人の希望は認められなかつた。 私の場合、当初は三中と問かされていたが、蓋を開けてみる と一中の合格者の中に名前があり、思わず快哉を叫んだもの である。(三年後の高校入学の際には全く逆の立場に置かれ、 悲嘆に暮れることになろうとは・・人間万事塞翁が馬!)

        “校舎はオンボロ、先生はあだ名"

終戦の直前に蒙つた岐阜市の空襲で岐阜一中の校舎は灰儘に 帰し、僅かに残つた鉄筋の本館の一部や夜間中学の校舎、応 急のバラックなどが私たちを迎え入れた。教科書なども殆ど 無く、教育環境は劣悪を極めたが、一中生としての意気だけ は軒昂で希望に満ちていたと思う。
各教科の先生方もそれぞれに個性的で味があり、伝統校の名 に恥じない陣容だったが、その伝統を一番実感したのは、先 生の殆ど全員が「あだ名」で呼ばれており、それが代々引き 継がれて来たことであつた。その「あだ名」はいずれも茶目 つ気と悪戯心の産物で思わず笑つてしまったが、その印象は 強烈でいまだに本名を想い出せない先生も多い。

          “堤防で校歌。応援歌の猛特訓"

入学後間もなく上級生から最初のシゴキの洗礼を受けた。校 庭の裏に連なる長良川の堤防に新入生全員が座らされ、周囲 の各所に上級生が立って目を光らせる中、応援部員と思しき 先輩の指導で校歌や応援歌を大声でガナるわけである。幸い 校歌は短くてすぐ覚えたが、応援歌は数も多く歌詞も長いの でなかなかスムーズには歌えず、上級生の罵声、怒声を浴び ながら徹底的に叩き込まれた。
この特訓は一中の伝統行事で、戦前はビンタや吊し上げは日 常茶飯事、新入生の恐怖の的とされていた。戦時中はさすが に中断していたのが息を吹き返し、私たちはその復活第一号 に当たつたらしい。
当時は怖さと苦痛しか感じなかつたが、この特訓の効果はて き面で、今でも校歌は全部、応援歌もメロディーが出ればか なりの歌詞が脳裏に浮かぶ。(その反面、高校の方は残念なが らメロディーも歌詞も殆ど思い出せない)

         “英語事始め―アメリカ民謡との出会い"。

戦時中英語は「敵性語」として排除されていたと思われてい るが、一中では昭和18年頃まで普通に教授され、上級学校の 入試にも入つていたという。19年からは授業から外されたが 戦後直ちに復活して従来以上に重要視され、私たちも生まれ て初めて英語と取り組むことになった。
アルファベットに始まり、厄介な発音記号や英文法、英作文 など悪戦苦闘の数々は記憶に新しいが、唯一心暖まる思い出 がアメリカ民謡との出会いであつた。
堅苦しい授業の合間の息抜きでもあつたのか、先生がフォス ターの名曲「オールド0ブラック・ジョー」をはじめ著名な 曲を紹介してくれたが、その軽快なリズムや哀調を帯びた歌 詞は情緒に飢えていた私たちに強烈なインパクトを与え、英 語の学習意欲を高めるとともに、音楽への苦手意識をも払拭 してくれたと思う。
なお、余談だが、その後の西部劇全盛時代にはせつせと映画 館に足を運び、「愛しのクレメンタイン」「遥かなる山の呼び 声」「黄色いリボン」「ハイ0ヌーン」などなど親しんだ主題 歌は枚挙に暇がない。

              “布製ボールで草野球"

野球との出会いも誠に原始的なものであつた。最初のきつか けは定かでないが、入学後間もなく誰かが古布を硬く巻き固 めたボール(らしきもの)を作り、校庭にベースを推きこん で野球(らしきもの)が始まった。勿論グラブやミット、バ ットなどは無く、角材でボールをひつばたく類いのものであ ったが、エネルギーを持て余し、娯楽に飢えていた私たちは この遊びに夢中になつた。途中でボールが破裂(?)して試 合が中断するなどハプニングも頻発したが、当時の楽しい思 い出の一つである。(用具について、誰かが古布を縫い合わせ てミット(らしきもの)を作っていた朧な記憶もあるが、は つきりしない)

             “心躍る男女共学の開始"

6.3.3制とともに導入された男女共学は23年度の新制高校入 試から開始され、岐阜一高には早速5名の女子が入学した。 そして、岐阜女高(女子の県立―中と謳われた岐高女の後身) との統合によつて本格的な共学が始まることとなった。新し く誕生した「県立岐阜高校」は岐阜一高に置かれることにな り、8月の炎天下、岐女高からの引つ越しを実施。夏休みの 一日、総動員された岐一高生と私たち併設中3年生は、勇躍 禁断の女学校へ向かい、机や構子の運搬に当たつた。重い荷 物を担ぎ、長良川の堤防の上を汗まみれで歩きながら誰も文 句を言わなかったのは、思うに9月からの楽しい生活に胸を 弾ませていたからであろう。
ところが、新学期になってから男女混合の授業を受けた記憶 が全く無い。学科選択制の影響か、あるいは併設中生だけが 埒外に置かれたのか、今となつては知るすべもないが、私た ちの落胆は頗る大きく、腹いせに唯一混合授業であつた音楽 教室をこつそり覗きに行つたりした。
結局、私たちが待ち望んだ本格的な共学は、新制高校入学ま で待たされることになる。

(付記) 併設中学卒業とともに母校は消滅した筈であるが
    その後「岐阜高校」からは同窓生の待遇を受けてお
    り、同窓会費も納めている。
    また、卒業した「岐阜市立高校」は、31年に県立に
    移管し同時に校名を「岐阜北高校」に改称している
    が、当然私はその同窓生である。
    つまり、戦後の学制改革の嵐に翻弄された私たちは、
    その後も残渣を引きずり、生涯その頚木から逃れら
    れない運命であつた。



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