敗 戦 と 私 の 「詩」 の 原 点

2015年3月20日  埋田 昇二 



 1954年、敗戦の年の8月から間もなく、東京都浅草区の育英小学 校から、蔵王山のふもとにある宮城県遠刈田温泉の旅館に疎開してい た集団疎開が解散した。とはいっても、子どもたちの家は東京大空襲 で残らず焼けていたから親戚のどこかを探さなければならなかった。 ぼくは父に連れられて伯母の実家である栃木県宇都宮在の大谷というとこ ろに疎開した。大谷は大谷石の産地で有名なところであったが、戦時 中は大谷石を削った跡を秘密の戦闘機の格納庫にしようとしていた。 しかし石を削ったところに恐ろしい空洞ができていて家が丸ごと陥落 するのをまのあたりに見た。

 そして、ぼくはその村の小学校に転校したが、その小学校に怖い先生 がいた。彼は戦前には誰もがそうしたように天皇陛下の名前を口にする 時は直立不動の姿勢をとらなければならなかった。その決まりを先生は 戦後の二カ月たった今でも頑なに守っていて、生徒の一人一人を回って 直立不動の姿勢をとっていない生徒を見つけると鞭で叩いた。彼の心に はどす黒い穴の透明な断崖が開いていて、陥落した大谷石のように空洞 になっていたに違いない。

 その小学校には二カ月いただけで、まもなく母の実家である静岡県磐 田郡今井村(現、袋井市)に移った。一九四六年四月、ぼくは静岡県立 見附中学校に入学した。旧制最後の中学生だった。

 間もなく、新制高校となったが(現、磐田南高校)三年間下級生がい なかった。入学時には、まだ戦闘帽にゲ−トルを巻いていたがそれもす ぐになくなった。中学校に入学してびっくりしたのは、上級生が講堂で 校長先生の戦争責任を追及する生徒大会を開いたことだった。生徒大会 には入口に柔道部の生徒が頑張っていて先生方を入れないようにしてい た。地方の中学校にもそうした世の中の動きが広がってきていた。

 そして、戦争放棄、戦力不保持の日本国憲法が成立した。ぼくらは文 部省発行の「新しい憲法のはなし」ではじめて平和と民主主義の尊さを 学んだ。「新しい憲法のはなし」は今読んでも新鮮でその原本を今でも大 切に持っている。戦争中、ぼくも聖戦を信じる軍国少年だった。それが 一転していままでの教えはすべて間違っていたと言う。それなら、大人 たちはどうして命がけでも戦争に反対しなかったのかという思いが心に 強く刻まれた。それから「真実」なるものへの疑義、「世界は不定」の 意識が今日まで根強く、私のなかに残った。それはいまでも、私の「詩」 の原点になっている。

<事務局付記>
  埋田君は現代詩の旗手として精力的に活躍中です。.昨夏
 同期生から募った「敗戦前後の体験記」に執筆・寄稿の予定
 でした。その矢先脳梗塞で倒れ、緊急入院加療中でしたが、
 昨年末に退院、現在通院リハビリをしつつ自宅療養中です。
 車いす生活を余儀なくされていますが元気です。言語麻痺
 はなかったとのことです。
  今般、約束を果たすべく病身に鞭打って一文を草し寄稿
 されました。「生きていればきっといいことがある」との言葉
 が添えられていました。同君の意力に敬意と謝意を表ると
 すともに先の「体験記録集」に17人目‐20番目の貴重な
 体験記として収録すべく諸兄の披見に供する次第です。同
 君の本復と詩業ますますの発展を祈念します。
                         (佐藤治記)

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