むかしはものをおもわざりけり


2014年8月10日  鵜飼晨夫


 昭和20年当時を振り返ると、父は舞鶴海軍工廠の技師で大阪軍需工場の監督官として単身赴任、家族は戦時学童疎開で母の郷里愛知県海部郡佐織町字草平にいた。実家は豪農で母は明治のころでは珍しく名古屋の椙山女学校を出ていた。末っ子なのに名は一子。同年の従妹がいて胸のふくらみがまぶしかった。敗戦の放送は草平小学校校庭で炎天下で聞いた。一学期、二学期を経て三学期には父の郷里愛知県中島郡萩原町高木へ5回目の転校。叔父は萩原町長で一宮市に合併されるまで務めた。中島小学校では卒業式で答辞を読ませてもらった。そこから愛知県立第六中学校に進学、二人が合格した。新制一宮高校を経て名古屋大学経済学部に入学する。

 振り返ってみると、草平では米軍の艦載機グラマン戦闘機の機銃掃射を浴びたり、名古屋大空襲では名古屋市の上空が真っ赤に染まっているのを見たりしたが何故か恐怖感を持たなかった。日々起きることを従順に受け入れていた。それに比べると中学、高校時代は日々之新で好奇心も旺盛、充実していた。精神的にも成長できたと思う。



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