『 終 戦 前 後 の 思 い 出 』

2014年9月30日  辻 伸司



故郷岐阜の思い出

 多くの学友と同じく、猛烈な空襲や、翌朝の見渡す限りの焼野が原の光景は生涯忘れることはありません。
  岐阜は第68連隊で、昔から、戦争にたけた土地柄の強兵でした。
岐阜駅前から、北に向かって凱旋道路という大通りがありました。第68連隊の兵達は、補充の都度この凱旋道路を通って岐阜駅に向かい、窓を閉め切った軍用列車で西へ送られて行きました。岐阜駅近くでは、「歩調とれ!」のかけ声と共に、緊張感溢れる兵達。
  ある日、年老いた母親が、息子の最後の姿(?)を追って、隊列を必死で追っていました。最近の朝ドラで息子を失った母親の無念さを描くシーンがありましたが、貧富、身分、職業に関係ない光景でした。
  出征兵士見送りの時は、国民学校より知らされ、送りに行きました。

  ただ、故郷、岐阜は軍都であり、また、日本三大飛行場の一つ、各務原飛行場が市の東に位置したため、早くから高空を飛来するB29の編隊が、市の西側、伊吹山上空から進入し、やがて、各務原飛行場辺りから黒煙が空を覆うのは何とも歯がゆい思いでした。飛行場に隣接する川崎航空機工場も空爆の目標でした。
  悠々と高空を飛来するB29の編隊に、高射砲弾は届かず、あれほど聞かされていた我が戦闘機の立ち向かう光景は見たことがありません。被害状況はいつも「被害軽微」の新聞記事。岐阜の街が焼野が原になった時も「被害軽微」。国民学校6年生であった自分でも、新聞記事の出鱈目に気づいたのでした。   余談ですが、身内が各務原飛行場の司令官の乗用車の運転士で、なんとそれはFORDでした。

  こんな、ショックを通り越した驚きは、昭和20年7月(?)の3機のグラマン艦載機が伊勢湾から長良川上を低空で飛来して来たときでした。対空砲火の及ばない低空を飛び、墨俣にある国道の鉄橋をひょいと跳び越え金華山方面へ。ここを超えれば各務原飛行場は指呼の間。空襲警報もなく、思うように飛来する艦載機。やがて飛行場の対空砲火。貴重な航空機燃料の燃える黒煙。あっという間の出来事でした。少年の胸に去来する戦争に負けるのだと言う恐ろしい思い。

WikipediaよりグラマンF6F
  玉音放送が終われば、数日後より低空で監視する艦載機の群れ。パイロットはコックピットの窓を開け、顔も見えるほど。
  軍都岐阜は、軍隊が居なくなれば兵舎は空き家、太平洋を、パプア・ニュー・ギニア、フイリピンと攻め上ってきたアメリカ第24歩兵師団の歴戦の勇士が進駐してきました。名古屋方面から、軍用車両にすし詰めになったアメリカ兵の顔。皆白人で、日焼けして赤鬼の様な面構え、屈強な体付き、彼らに思うように打ちのめされたのかと思うと情けない思いでした。今後の事を考える余裕などありませんでした。
  進駐軍の軍用トラックの大きくて頑丈な作り、車輪は国民学校6年生の私の背丈と同じほど。

  戦中戦後の食料不足に悩まされた経験はありません。父は、私が通っていた国民学校校区で、多分、一番の反収を得ていた米作り農家でした。米の供出は、厳格でしたが、所謂、悪平等な割り当て。よく働き、知恵を出す農家も、朝は遅く、昼寝は長い懶惰な農家も一反辺り何俵と言う割り当てでした。農繁期に近所の人達が手伝いに来てくれると、純綿と称する白米のご飯を出していました。皆、感激してくれました。
  父は、供出を済ませ、残りの米を白米で食って何が悪いと言い、白米を食べていました。私たち子供は、父の白米の分を除き、麦を混ぜた所謂麦飯を食っていました。そうでないと、学校に持って行く弁当に困るからです。
  父は地元の農協の理事をやっていました。理事長は、岐阜市内から疎開していたMさんでした。
  このMさんが、父の教育に対する概念を根底から変えた人でした。Mさんは岐阜市内南部に百数十軒の戸建て貸家を所有し、私の校区に疎開していたのでした。学歴は、戦前にアメリカのコロンビア大学卒でした。自宅にも来られましたが、風貌からして堂々たるものでした。
  父は農業は自分の代で終わり。娘は農家に嫁がせない。息子は大学教育を受けさせると言う考えでした。
  6年生の一学期に、担任の先生から、将来の希望を書いて持ってこいと言われました。父に相談すると、岐阜県立中学に入り、名古屋の第8高等学校が目標と書いて出せと言われ、担任の先生に提出しました。
  担任の先生は、椅子に座り、各人の持ってきたメモを見ていました。私の番になり無言で提出すると、上目遣いにちらっと私の顔を見ました。他の男子生徒が書いてきた希望は、海軍大将、陸軍大将でした。
  この岐阜市最南端の小学校(国民学校)から、第8高等学校に入学できた生徒はいませんでした。
  幸い、県立中学に合格しました。県立一中、二中は同時試験で、後は、小学校(国民学校)で県立一中、二中と分けていました。私の校区は二中でした。
  高校一年の時、再度、教育の平等を建前に学区制の細分化があり、高山線沿線の元農林学校等へ転出させられた秀才達のその後の苦労を見ると残念です。

海外で見た戦争の残滓

    皆さんが投稿された話題と少し異なりますが、海外で見た大戦の残滓にも触れて見たいと思います。
  世界各地に大戦の跡はありますが、昭和59年(1984年)1月より昭和60年(1985年)2月までパプア・ニュー・ギニアに一年余駐在したときの印象は強烈でした。
  私はポート モレスビーを本拠として、ラバウルのあるニューブリテン島、山本五十六元帥の搭乗機が撃墜されたブーゲンビル島などに支店のあるオーストラリア人の会社に出向し、日本の某社のトラックなどの商業車の市場開拓に従事していました。

  日本からパプア・ニュー・ギニアまで5,000km 現在の近代的輸送手段でもこの基地を維持することは困難です。
  その上、オーストラリアに本拠のある米豪を攻撃することは不可能で、日本軍は、まず、パプア・ニュー・ギニアを占領し、ガタルカナル島を最前線とする作戦をたてました。いずれも頓挫し多くの若者を失いました。
  ラバウルにあったパプア・ニュー・ギニアを含む野戦病院の跡に小さな石碑が建っていました。その横に、近代的な総合病院、ここはマラリアが猛威をふるう地帯です。
  パプア・ニュー・ギニア方面に派遣された兵は13万人、五体満足で帰国出来たのはわずか数千人。

  ラバウルにあった地下司令部前に展示されている日本軍戦車の残骸。

  ノモンハン事件昭和14年(1939年)7月の経験も生かされず、こんな小型戦車では、鋼鈑の厚いアメリカの戦車に全く対抗出来なかった。でも、それが日本の実力でした。

  元ラバウル飛行場近くの椰子畑に残る一式陸上攻撃機の残骸

  パプア・ニュー・ギニアに駐在していた昭和60年(1985年)に撮影しましたが、機体のジュラルミンは錆もせずぴかぴかでした。この辺は、今も、マラリアにおかされる住民が多く、見地の総合病院はマラリア患者が多いと言う事でした・
 パプア・ニュー・ギニア戦記は、零戦等多くの資料を集め、私のホームページに詳細を公開しています。
 ご参照下さい。
 http://homepage2.nifty.com/stsuji/carp0503-png.html


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