(69年前を語り伝えよう)
混乱の学生生活


2014年8月20日  高野 工(酒井ゼミ)


 旧制から新制へ、戦時体制の下とはいえ混乱のなかを走り抜けました。
 名古屋市熱田区に生まれ、熱田神宮の森と熱田魚市場を、遊び場にして育ち、白鳥小学校から旧制五中、別名熱田中学校に入り、朴歯の下駄を履き日本手拭を腰に下げ、悦に入っていました。それも束の間で新制に切り替わり、旧制一中の旭ヶ丘高校併設中学校に移り、高校は菊里高校です。何分にも古いことでしたが、幸い学校の徽章を見つけ出し、忘れかけていた記憶の糸を手繰り寄せることが出来ました。
 白鳥小学校の時、四年か五年か忘れましたが戦争が激しさを増し、集団学童疎開が断行されました。知多半島の内海町に仲間と一緒に移り、山の中腹にある通称山寺という、高い階段の先にある大きな寺院に住み、海辺の小学校に通いました。一日は朝の“般若心経”の読経に始まり、庭を竹箒で綺麗に掃除するのが日課でした。海辺の小学校では勉強に励みましたが、ある日突然授業中に大地震が発生し、“津波が来るぞー”という先生の大きな叫び声に背中を押され全員逃げました。疎開組は一団となって山寺に向かい、途中倒壊した家はあるし、墓石がたくさんひっくり返っているし、津波が来るかと心配になって後ろを振り返りながら一目散に走りました。昭和19年12月7日午後1時36分“昭和の東南海大地震”に遭遇したのです。
 夜にはB29が大編隊を組み伊勢湾上空を北へ向かい、名古屋を爆撃するのですが、高射砲は名ばかりで飛行機に届くことはなく途中で炸裂し、戦闘機らしきものがフラフラと飛び揚がって行きますがとてもB29の高度には行けません、サーチライトがむなしく空を照らしているだけです。子供心にもダメだなぁ〜と感じました。名古屋の両親の家はB29の焼夷弾爆撃で焼かれ郊外の西春に移ることになり、私は思い出多い集団疎開の仲間達と別れて家族に合流し、師勝村小学校に転入しました。ここの校庭で、強い夏の日差しを浴びながら昭和二十年八月十五日“玉音放送”を聞きました。   戦後名古屋市内に戻りますが、自宅の焼け跡にはその後爆弾が落ちたらしく大きな穴が開いており、家の再建を断念し、止む無く熱田区から千種区に住まいを変えました。学校は元通り白鳥小学校に戻りましたが、満員電車で長距離通学をし、苦労の末無事卒業しました。

 中学は教育制度 学区制度の混乱に翻弄されましたが、今振り返ると五中、一中 と市一{女子}という名古屋の名門学校を渡り歩いたことになり、後に名古屋大学に入った時、そこで多くの旧友と再会することが出来たのは、望外の喜びでした。



                  望洋会TOPページへ