終 戦 前 後 の 自 分 史


2014年7月31日  杉浦耕一


 今年で戦後69年になる。多くの優秀な同期生がお亡くなりになったのに、ここまで生き長らえてこられたし幸せを噛みしめながら、私が生きてきた戦中、戦後を振り返ってみよう。
 8月15日の玉音放送は、当時のラジオの性能と天皇の特異な声調から詳しい内容は聴き取れなかったけれど、耐えがたきを耐えという言葉から日本の敗戦を意味するものだということは理解できた。愛国少年を自負してきた私には、そのショックは大きく、味わったことのない無力感にとらわれた。それが、戦争が終わったという喜びに変わるには時間を要した。

 戦前、明倫小学校4年生の時、海洋少年団に入団したのは同校で私一人だった。将来は江田島の海軍兵学校に入学し、海軍軍人になるこが目標だった。姉と二人で、お年玉を貯金した金を、今の名城小学校近くにあった憲兵隊司令部に献金に行ったこともある。 5年生の頃、学校から見に行った映画、題名も詳しい内容も覚えていないが、母子家庭の少年が周囲の反対を押し切って軍隊を志願するという筋で、映画を観た翌日、担任の伊藤先生が、軍隊に志願することだけがお国のためになることではないと言われたことに、強い反発を覚えたものだった。
 5年生の7月に父の故郷桜井村(現、安城市桜井町)の伯父を頼って一家は疎開した。住んでいた車町一帯(現、中区丸の内3丁目)が防火地として強制立ち退きを迫られたからである。 疎開から終戦までの1年1か月は、学業は二の次、田の草取り、草刈、イナゴ捕りなど慣れない作業に明け暮れする毎日だった。農村に住んでいても非農家も我が家の食糧事情は苦しかった。 戦前、名古屋での我が家は呉服商だったが、戦争に近づくにつれ、事実上廃業状態であった。 母は全然着道楽ではなかったが、呉服屋の妻としてタンスの中には手を通していない和服がかなりあり、それと姉の花嫁衣装も準備されていたが、それらが食べ物確保のため一枚と2枚と消えてゆく売り食い生活だった。桜井の友達は、私の名古屋弁をからかうことを除いてはみんな親切だった。

 勤労奉仕作業の中に一つの事件があった。桜井は三河松平氏ゆかりの土地で、城山と呼ばれる小高い丘は、かつての桜井城の城跡である。以前は松林だったが、当時は松は切り倒さられ、航空機燃料に使用されるという松根油をとるため埋まっている松の根を掘り出し、跡地を畠にする開墾作業に従事していた時のことである。肩と肩がくっつくように並んで作業していた隣のK君の手が滑って唐鍬(刃が肉厚の鍬)の鍬先が私の頭上に、生暖かい血が肩に顔に垂れ下がるのが気持ち悪かったが、ほとんど痛みは覚えなかった。私は冷静だったが、友達、先生は大慌て、近所の家から乳母車を借りて私を医院迄運んでくれた。幸い、頭皮の傷に留まり骨、内部には影響は無かったようで、包帯も10日のほどでとれた。K君はしょげていたが、私には彼を非難する気持ちは全然なく、友達も彼を非難しなかったことがうれしかった。ただし、現在なら、学校が管理責任を問われる事態になったかもしれない。

 終戦後の我が桜井中部小学校は、どこも同じ、教科書の墨塗り作業を経験した。ちゃちな英会話集が支給されたが、それが役に立つ機会は無かった。友達の間で、音楽のY先生(すでに退職されていた)が進駐軍にレイプされたという噂が広がった。エキゾチックな容貌が原因のデマだったと思っている。

 終戦を挟んだ2年間に二つの大きな地震に遭遇した。昭和20年12月、名鉄西尾線の西、現在は住宅地となっているが当時は建物は何もない田んぼの中で、学校から落穂ひろいに行っていた時である。周りに建物が無い為、揺れが判らないが、立っておられないという状態だった。先生が、これはかなり大きな地震だと教えてくれた。これが昭和の東南海地震、この時はこの地方は大した被害は無かったが、翌昭和21年1月の三河地震の時はひどかった。その冬は雪が多く、幸い我が家は倒壊を免れたが、余震が続くため4,5軒共同のわら小屋生活が1か月近く続いた。わらを敷いた上に隙間なく布団を敷きつめた小屋には、無論暖房器具は無く、夜中に寝ている人の隙間を縫ってトイレに行くのは大変だった。
 昭和21年4月、旧制西尾中学に入学した。復員帰りの上級生が我々新入生に活を入れていた。名鉄で電車通学したが、ドアの閉まらない満員電車につかまり、矢作川の鉄橋を渡ったこともあった。英語の太田先生の友人が、当時進駐軍に接収されていた蒲郡ホテル、常盤館(蒲郡プリンスホテルから現在は蒲郡クラシックホテル)で通訳をしておられるとのことで、太田先生に連れられ常盤館へ見学に行った。無論、英会話が出来るわけではなく、何のために行ったのかもよくわからないが、井戸水を飲料水にしていた私には、進駐軍のカルキ臭い水がアメリカの味のように思えた。

 前に書いたように、我が家は売り食い生活、僅かばかりの預金、両親が姉と私のために蓄えてくれていた学資貯金も、預金封鎖と激しいインフレにあっては大した役には立たなかった。当時女学校に通っていた4歳上の姉(健在)は言う。その頃、一番つらかったのは授業料のお金を母にもらう時だった。言い出しにくくて期限ぎりぎりまで延ばし、やっと授業料のお金をと母に言うと、なぜもっと早く言わないのとお金を渡してくれた。と 姉に比べてボンボンの私は、平気で授業料をもらっていた。貧しい生活費の中で、母は二人の授業料を優先的に確保してくれていたのだ。お金のことに限らず、我が家は、両親が自らを犠牲にして子供優先の生活だった。
 好きな書物も戦前から残したものしかない当時、唯一の楽しみはラジオから聞こえる音楽だった。クラシックに限らず、軽音楽も。ダイナ・ショアの“ボタンとリボン”がなぜバッテン・ボーなのかと首をかしげていた。女学校でコーラスをやっていた姉は陽気な性格で、家に帰ってもコーラスの歌を歌っていた。メンデルスゾーンの“おお、ひばり”とか”希望のささやき”とか。私の音楽好きの発生源はこのあたりだろうか。姉は、今でも合唱サークルのおばあさんである。
 貧しいながらも幸せな家庭に育った私には、戦災孤児となられた方々、海外から引き上げてこられた方々のご苦労が痛切に感じられる。野坂昭如の小説で、アニメ化された“火垂るの墓”は何度読んでも観ても涙が止まらない。(男のくせに、涙もろい私ではあるが。)
間もなく終戦記念日を迎えるに当たり、今でも世界各地で戦争という殺人が頻発し、日本でも戦前の日本へ押し戻そうという動きが、丁度豊臣氏滅亡の時、大阪城の外堀がまず埋められたように徐々に広がろうとしている現況を憂慮するものである。



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