=満洲からの引揚げと帰国後の暮らし=
その2

2014年9月30日  佐藤 治



2、帰国後の暮らし

◇父の在所に転がり込む やがて厄介者扱いに
 昭和21年8月10日に一家で木曽川べりの弥富町で自作農を していた父の実家に転がり込んだ。祖母が健在で、泣いて再会を 喜んだ。暫く長旅の疲れを癒した後、同じ屋敷内にある8畳一間 の小部屋を宛がわれ、新しい暮らしが始まった。
 家督を継いだ長兄は何かと気遣ってくれたが、兄嫁等からは名 高商まで出して財産分けしたのにと段々厄介者扱いされて肩身の 狭い思いをした。引揚者が一番苦労した問題がわが家でも起こっ ていた訳で、蓋し当然な成り行きではあった。何れにしても早く たつきの目処を立てて自立しなければと家族一丸となって動き出 した。

 旧制中学、高女までは何としてでも出す、後は家計の状況を見 て判断する、家計の足しになることは子供も積極的に手伝う、出 費はギリギリまで切り詰めるので辛抱することを申し合わせた。 母の在所に預けていた兄も合流し、代わりに3歳の弟を請われて 養子に出し、親子7人で1年後を目処に他所へ出て気兼ねのない 生活をすると決めた。

 この間、父は高商の友人等を頼りに仕事を廻してもらい、細々 と仲介斡旋の労を執ることに専念していた。年齢等もあり再就職 は断念せざるを得なかった。一方、生糸を扱う商家に生まれ商才 もあった母は、貴重品であった卵を農家を廻って仕入れ名古屋で 捌くことから始め、逐次扱い商品を増やして最後には都会の家庭 の箪笥に眠る和服類を米と引き換えに買い取り、金廻りのよい農 家へ捌く仕事に精力を注ぎこんだ。何れもうまく当り、次のステ ップを目指すまでになった。

 姉と私は洗濯と屋根のない台所での炊事を請け負い、雨の日は       傘をさしてコンロの火を守りながら夕飯をつくった。すいとんが       多かった。兄と私で畑を借りて季節物の野菜を作り、蝗を捕え、 ?いどりで大量の小鮒を獲り、田螺やニッキも採って食卓に乗せ た。稲刈り、田植え等あらゆる農作業を手伝い、米麦を分けても らった。鶏も飼い、貧しいながらも楽しい毎日であった。

◇旧制三中(現津島高校)へ進学、河合茂名校長に心酔
 引揚げの翌月、兄が通学していた旧制3中への転入試験を受け た。1年半のブランクがあり、ABCも判らず不安であった。父 に付き添われて教室で著名な英文学者であった河合茂校長の面接 を受けた。引揚げ受験生3名から交々話を聴いた校長は、「大変で したね。貴重な経験をしたと思ってください。人生は長い。きっと どこかで生きてきます。シェイクスピアも言っています。朝の来な い夜はないと。頑張ってください。Make haste slowly. 試験は免 除します」と告げて教室を出て行かれた。勇気づけられる言葉であ り、癒される思いであった。尤も英語の諺の意味は分らなかったが 、後日父が調べたところによるとラテン語からきたもので「ゆっく り急げ、急ぐのはいいが、あせってはいけない」と含蓄のある言葉 であった。玩味すべき言葉を肝に銘じ、爾後拳拳服膺した。
 姉も恙なく津島高女に転入できた。因みに引揚げ後各地へ散った 同級生は、中学への転入が認められず、小学校高等科か浪人して新 制中学へ入った者が多く、1〜2年の差がついた。河合校長の英断 に改めて感謝したい。

 父は無類の読書家であった。渡満前に大切な蔵書一切を実家に預 けた。日本文学全集、世界文学全集、世界偉人伝集、日本山岳大全 その他幸田露伴、夏目漱石、芥川龍之介、ランボ−の単行本や名高 商時代の浩瀚な経済学書等がそのまま保管されていた。中高校生時 代に姉と二人で文学書を読み耽った。大学時代には経済学書を読破 した。父の大きな遺産だ。因みに、引揚げてきて最初に読んだ本は 「草枕」と「鼻」であった。

◇養蚕部屋を移築して転居
 1年2ヶ月後念願の新居に移り、古着店・呉服店の看板を掲げる ことができた。新居と言っても母の在所の元蚕部屋を解体移築した 2部屋の小じんまりしたものであった。お客さんも日本毛織弥富工 場の寄宿舎住まいの女子工員さんが主体になった。開業資金は渡満 前に宝くじが当りその資金で購入してあった瑞穂通りの土地の強制 収容代金を充てた。涙金であったが救われた。繊維に詳しい父と母 の二人三脚で士族の商法が始まった。私もよく品物の受け取りに長 者町や竹鼻町、萩原町等へ出かけた。また、高校生時代には資生堂 の化粧品セ−ルスや日本毛織の構内作業・農作業のアルバイトに精 を出し、進学資金を貯め込んだ。姉と兄は進学を諦め、3人の弟た ちの進学を援けたいと言って勤めに出た。今でも恩に感じている。

◇伊勢湾台風で再度出直しへ
 その後、商売も逐次軌道に乗り、父も公職を依嘱され、歯車が廻り 出した。程なく2階建てに建て替え、姉も結婚し、私も名大経済に滑 り込み、父の勧めに従ってトヨタ自動車に就職した。昭和34年9月 の伊勢湾台風で家は2階まで浸水し、長期湛水、水が引いた直後に全 壊した。一からの出直しとなった。末弟も亡くなり辛かったが、河合 茂校長の箴言“The night so long that never finds the day.”と酒井正 三郎先生の箴言“Es ist gut.” を胸に刻み、苦境を乗り切ることがで きた。

 引揚げの苦労を共にした父、母、姉、2人の弟は既に亡い。兄も逝 った。多くの人々に支えられて今日まで生き永らえることができたと の思いを深くし、感謝している。



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