=満洲からの引揚げと帰国後の暮らし=
その1

2014年9月28日  佐藤 治



満洲からの引揚げ

◇満洲への移住
 昭和14年秋、父は意を決して妻子を伴い満洲に移住した。早く から満洲に渡り、自由貿易港大連を中心に全満をカバ−する貿易商 社立ち上げ成功していた名高商(第1回生)同期の友人M氏の協力 懇請に応じたものだった。
 最初の1年目は奉天本社、2年目以降は大連支店長として、順風 満帆の生活を送っていた。私は奉天で新1年生となり、2年生から 5年生秋まで大連の二つの小学校に在籍した。この間長兄、父、私 と相次いで肺疾患に冒され、兄は帰国して母の在所に、父は半年間 転地療養、私は1年間大連病院入院・転地療養を託つこととなった。      大東亜戦争の熾烈化とともに商社活動に種々隘路が生じ、父は伝 手を頼って満鉄の関連会社(鉱山会社)に転職、南満洲の大石橋に 赴任した。私も小学5年11月に4つ目となる大石橋小に転校した 。大石橋は関東軍の要衝で、満鉄の機関区・検車区等現場部門の本 拠が置かれ、世界有数のマグネサイト鉱山があった。

◇ソ連侵攻−敗戦−ソ連占領
 1985年8月9日午前零時、ソ連は日ソ不可侵条約を破棄して 日本に宣戦布告、ソ連軍は満ソ東部国境から一斉に満洲国各地に侵 攻した。総兵力175万、厖大な数の戦車・装甲車・自走砲を先頭 に関東軍守備隊を殲滅し、圧倒的な航空戦力で制空権を制した。す でに精鋭部隊を南方戦線に転進させ、50万に満たない兵力と劣弱 な装備の関東軍には最早や迎撃する能力はなく、怒涛の進撃を許し た。国境周辺の開拓団、都市集落はソ連軍の容赦のない攻撃に曝さ れ、葛根廟(1200人)、牡丹江、開拓村等至る所で民間人の大 虐殺が繰り広げられた。敦化、麻山、開拓村で逃げ遅れた人たちや 凌辱された女性たちは青酸カリで集団自殺した。15日のポツダム 宣言受諾−日本降伏後もなお暫く悲劇は続いた。
−内陸部の大石橋では幸いにもこのようなジェノサイトは起きな かった。私たち生徒は8月15日正午、小学校で玉音放送を聴 き、日本の敗戦を知った。担任が目を真っ赤にして日本が負け たんだと言って男泣きした。生徒も大きなショックを受け、皆 でオイオイ泣いた。帰宅すると父母が茫然自失、これからが大 変だと呻くように言い、また泣いた。

 虐殺を逃れて生き残った人たちも同胞が沢山いる内陸部まで行け ば何とかなると一縷の望みを託して一路新京、哈爾濱、斉斉哈爾、 奉天を目指した。列車もなく、何百キロあるいは1千キロ以上の道 を只管歩いて避難した。途中匪賊や暴徒に襲われ、殺害、餓死、病 死、伝染病死、凍死、自死する者が続出した。目的地の収容所(学 校・寺院等)に漸く辿り着いた後も次々と死者が出て校庭は墓場と 化した。帰国を諦めた残留婦人や両親を奪われた残留孤児が大量に 発生した。
−大石橋にも難民の一部が辿り着き、居住民で手厚く保護をした。 悲惨な有様に言葉もなかった。

 ソ連軍は引き続き南下して主要都市を占領し、大連に到った。彼 等は直ちに軍隊の武装解除−捕虜のシベリア送り、産業施設・機械 設備・資源の根こそぎ収奪−本国への搬送を開始した。徴用した日 本人に準備作業をさせ、満鉄の輸送網・職員を動員して連日本国へ 収奪品を搬送した。
−大石橋は満鉄の現場部門と鉱山会社が集中するだけに厳しい統 制・管理が敷かれた。武装解除された守備隊の兵器が山と積ま れ、軍人軍属が貨車でシベリアへ送られる情景には名状しがた い思いであった。また、駐屯するソ連兵による略奪、殺傷、強 姦、強制労働が日常茶飯事化し、跳梁跋扈する土匪と暴徒の襲 撃も頻繁に起り、住民は自衛策に追われた。学校は閉鎖され、 引揚げ時まで授業を受けることは一切なかった。この間、少し でも家計の足しになればと菓子、饅頭、煙草等を街頭で立売り した。家財道具や貴金属・骨董品・衣裳等目ぼしい金目の物を 次々二束三文で換金した。

◇国共内戦
 ソ連占領直後から、ソ連撤退後の満洲の支配権を巡って国共の争 いが勃発し、八路(中共)軍が続々満洲に侵入してソ連軍と占領地 を共同支配するようになった。一方、中国共産党の中国・満洲支配 を懸念する米国の支援を得て国府軍が年末から満洲各地に進攻し、 国共内戦が始まった。この煽りで2月に南満の要衝通化市で中共軍 による日本人3000人の大虐殺事件が起きた。
−大石橋へも10月に八路軍が進駐・実質支配した。日本軍の武 装解除で没収した武器弾薬類は八路軍に引き渡されたとの噂で あった。治安は回復したものの旧体制下の警察・特高・行政関 係者の要人狩りが執拗に行われ、人民裁判にかけられ公開処刑 された。邦人は息を潜めて恐怖政治に耐えていた。

−年末にソ連軍が撤収し八路軍の単独支配となったが、程なく重 装備の国府(蒋介石)軍が山海関方面より進攻、八路軍は敗走 した。市街地には夥しい数の死体が散乱し凄惨を極めた。恐怖 政治に戦いていた邦人は国府軍を歓迎したが、軍規は弛緩、金 品強奪、婦女暴行に心休まる日はなかった。治安は再び悪化し、 インフレが昂進、食糧不足も募り、冬場に焚く石炭もなく、空 腹と寒さに只管耐える日々が続いた。秋口から父と一緒に満人 地主の農作業要員に雇われ、一家の糊口を凌ぐ有様であった。

−3月になると遼寧省一帯で国共内戦が激化し、大石橋でも熾烈 な攻防が繰り広げられた。2日間に亘る砲撃戦、銃撃戦、市街 戦の末、国府軍が投降・撤退した。隣家に砲弾が落ち、わが家 も大きな被害を受け、死を覚悟した。八路軍には各地で徴発さ れた旧日本軍兵士や従軍医師・看護婦も散見され、複雑な気持 であった。両軍の戦死者も多く、日本人にも多数の犠牲者が出 た。戦争の悲惨さ、不条理を嫌と言うほど思い知らされた。

◇国共休戦−葫蘆島から引揚げへ
 12月初めにトル−マン政府の対中政策大転換により蒋介石への 積極支援、国共停戦、残留日本人俘虜・民間人の早期帰還が決まっ た。4月初めまでに米軍主導で朝鮮南部・中国本土・台湾からの引 揚げが完了し、4月以降米軍・国府軍共同作戦により満洲・大連・ 朝鮮北部・南樺太、所謂ソ連管轄地域からの引揚げが開始された。 満洲からは奥地・新京・奉天・大石橋方面の順に4月〜10月ま     でに葫蘆島経由で105万人、大連からは12月〜翌87年3月ま でに22万人が引揚げた。引揚げには米軍のLST・リバテイ艦・ 病院船191隻と残っていた日本の艦船が使用された。引揚げの総 指揮を米軍が執り、国府軍の引揚げ専任機関と日本側窓口である東 北日僑前後連絡総処(会長高碕達之助)の緊密な連携の下、引揚げ が一糸乱れず整然と行われた。
 なお、裏面史として、窮状に喘ぐ満洲同胞を救うべく決死で満洲     を脱出、日本政府・国会、世論、GHQ−マッカ−サ−元帥へ直訴     し、葫蘆島からの早期引揚げ実現に一役買った3人の漢(鞍山の昭 和製鋼所の丸山邦雄、新甫八郎、武蔵正道)の決死の活躍があった。

 3月、ソ連軍の満洲からの撤退と同時に国共休戦協定が破られて     6月から3年間に亘る本格的な国共内戦に突入したが、葫蘆島から     の引揚げには特段の支障はなかった。引揚げに際して国共双方から     技術者、医療関係者、鉄道関係者、学者等が残留・指導を求められ     留用された。留用期間は数年から20年前後に及んだ。10月以降長 春、瀋陽等の攻防戦で中共軍が勝利を収め、満洲は共産党の手に落 ちた。その後最終的には共産党が全面勝利し、1949年10月、中華 人民共和国が成立、国民党政府は台湾へ遁れた。
−大石橋では休戦協定に従い5月に中共軍が撤退、国府軍の無血 再入城となった。中共軍撤退時の破壊行為は凄まじく、重要施 設に火を放ち炎上させた。暫くして国府軍管轄下で急遽帰国の お触れが出、7月上旬一家7人、すし詰めの貨物列車に飛び乗 り奉天経由熱河省の錦州に向かった。持ち物は各自身の回り品 のリュック1個と現金@1000円に制限されていた。錦州で 2週間の収容所生活を送り、7月末無蓋のフラット貨車に乗り 込み、葫蘆島に向かった。一夜旧満鉄社宅で雑魚寝、翌日徒歩 で長い桟橋に向かい、頭からDDTを振りかけられて帆船「日 本丸」に乗船した。嬉しくて家族で抱き合って泣いた。遠ざか る満洲に手を振って別れを告げた。船で出された白米の何と美 味かったことか、毎晩すきっ腹を抱えて舳に寝そべり飽かずに 天の川を眺め、臍下丹田に力を込めていた。船上で力尽きた老 人や幼児が次々と水葬に付され、正視できずもらい泣きした。

−「日本丸」は検疫のため永い間沖留めされた。(暴行等による 不法妊娠、性病罹患の調査を含む。特別施設で堕胎処置)8月 上旬漸く博多港に接岸した。家族揃ってタラップを降り、祖国 の土を踏んだときの感激は一生忘れることはない。

−博多港で引揚げ専用列車に乗り、一路父母の故郷愛知県へ向か った。途中長時間停車した広島駅から見た原爆の爪痕に愕然と した。車窓からの瑞々しい緑と青い海が傷心のわれわれを癒し てくれた。33時間後に深夜の名古屋駅に降り立ち、駅待合室 で仮眠、翌朝、関西線で弥富へ。ジリジリと太陽が照り付ける 中を黙々と歩いて父の在所に向かった。

◇むすび
 ソ連参戦とポツダム宣言受諾の日から満洲は混乱の中で崩壊し、 計り知れない悲劇がもたらされた。その原因は、日本国政府が@ソ 連の参戦を予期せず民間人の避難が後手に廻ったこと、A現地居住 者は現地に定着せしめるという非現実的で愚かな棄民政策を採り、 居住者保護の外交的な詰めを怠り、非情な国際政治の荒波に翻弄さ れたことにある。全ての責任は日本国政府が負うべきものである。 日中関係の回復をまって、野晒になっている厖大な遺骨収集・慰霊 を検討すべきではないか。
−・敗戦時の在満民間人155万人(うち犠牲者数25万人)
 ・このうち満蒙開拓義勇団員24万人(犠牲者数8万人)
 ・残留孤児2700人、残留婦人3800名、留用約2万人
 ・引揚げ者数は葫蘆島から105万人、大連から22万人。
 ・シベリア抑留の軍人軍属60万人 (うち犠牲者数6万人)
  民間人犠牲者数25万人と合わせると犠牲者総数31万人

 引揚げが可能になったのは、一に米国(米軍)と国民党(国府軍)     の支援・協力によるものであり、人道的配慮・支援に深く感謝して いる。ソ連(ソ連軍)と共産党(中共軍)は妨害こそすれ支援は皆 無で、虐殺・リンチ等の非人道的行為こそ糾弾されて然るべきもの である。

 また、歴史認識がしばしば問題になるが、日本として日中間の歴 史問題を総括し、明確な歴史認識を持つべきではないかと愚考する。 満洲が列強の後を追った日本の植民地であった事実をよく認識し、 五族協和、王道楽土のスロ−ガンの下、中国の民衆に多大な迷惑を かけたことを率直に認め、詫びることが日中の相互理解促進の出発 点になると考える。同時に日本としてもこのような視点から歴史教 育の在り方を根本的に問い直すこともまた必要かと思う。

 最後に満洲の生活体験・敗戦・過酷な引揚げ体験は、私の人生観、 哲学、生き様、人格形成に決定的な影響を与えた。私にとって満洲 はいつまでも心の故里であり、大切な拠り所でもある。

(付記)引揚げ問題については、当HPのオピニオン欄に「引揚げ の記憶と国家の責任」と題して、2013年9月26日付 で寄稿しているので、重複する部分もあるが併せて参照さ れたい。



                  望洋会TOPページへ