『 6 9 年 目 の 夏 に 』


2014年8月25日  小澤 晃



 今年も8月15日がやってきた。69回目の終戦記念日である。例年8月になると私は 決まって他の月とは違う緊張を覚える。あの太平洋戦争(当時は大東亜戦争と称した)に かかわる話題が、繰り返しマスコミによって報じられるからである。
 最近では、国際情勢や国防などの内政問題について特別な関心を払わざるを得ない事態 がクローズアップされてきているが、特に8月にはこのことが先の大戦とからめて大きく 取り上げられるため、余計に鋭敏になるのかも知れない。

 この時期の報道が広島と長崎の原爆被害者慰霊祭、15日の終戦記念日の行事が中心に なるのは毎年の例であるが、それにまつわる話題も多く語られる。首相や閣僚による靖国 神社参拝、憲法改正、沖縄基地などの諸問題である。今年はさらに集団的自衛権の問題が 加わった。
 私は戦後69年も経ちながら、これらの問題に対して語られる内容の乏しさに苛立ちを 覚える。69年とは一つの立派な歴史を形成するに足る年数である。事実その流れの中で わが国の内外の情勢は大きく変化してきた。それにもかかわらず論議される内容はほとん ど69年前のレベルに留まったままである。この国の将来は大丈夫なのかとしきりに心配 になるこの頃である。
 先日、テレビ局の街頭インタビューで、原爆について聞かれた二人の男子大学生は全く 関心がないと悪びれることなく発言していた。また二人の女子高校生は原爆を投下された 都市を知らないと笑いながら答えていた。それは長崎に原爆が投下された8月9日のこと であった。
 聞くところによると、このごろでは、かって日本が米英を中心とする連合国と戦争して 負けたことを知らない大学生が少なくないという。全く嘆かわしい若者の実態に呆れと憤 りを覚えるばかりである。

 しかし一方においては、若者を批判する前に、大戦と敗戦を経験し、その後の復興への 苦難の道を実際に歩み、今日までの日本の歴史を作ってきたはずの大人たちも、その重大 かつ貴重な体験を次世代に伝えてこなかった罪は大きいと謙虚に反省しなければならな い。かくいう私もこのことを大いに後悔している。勿論、近・現代の歴史をないがしろに してきた学校教育にも罪がある。
 今やその大人たちの大半は別の世に旅立ってしまった。そこで私は、戦争当時は子供で はあったけれどもそれなりの実体験をした我々世代が、80歳を超えて薄れつつある記憶 を呼び起こしながらも、最後のチャンスとして語り部の役割を担う必要があるのではない かと思い、筆を執ったというわけである。
 昭和16年(1941)12月8日の朝、わが国が米英両国と戦闘状態に入ったとのニ ュースをラジオで聞いたのは、目を覚ましたばかりの寝床の中であったと記憶している。 時間は6時頃だっただろうか寒い朝であったので、なかなか寝床から離れられず、布団に くるまって聞いていたように覚えている。そのとき私は9歳、尋常小学校(後に国民学校と なる。今の小学校)の3年生であった。幼い胸にも微かな緊張と不安が走った。

 私は名古屋生まれであるが幼少の頃より病弱であったので、療養のため三重県の富田一 色という漁業を生業の中心とする土地に住んでいた。後に四日市市に編入された。 住居は防風林に覆われ、眼前に伊勢湾が大きく広がる白砂青松の景勝の地にあった。 小学校は富洲原尋常小学校といった。学校では開戦の話で持ちきりであった。朝礼で校長 先生の訓示があった。話の内容に記憶はないが、当然戦意を高揚するものだったのだろう。

 緒戦の日本海軍によるハワイ攻撃の赫々たる戦果と、ほぼ同時に行われたマレー半島や フィリピンへの進攻作戦の電撃的成功に国中が沸いた。開戦からわずか5ヶ月ほどの間に マレー、シンガポール、インドネシア、ビルマ、フィリピンなどの東南アジア一帯を勢力 下に収めた。まさに破竹の勢いであった。シンガポールが陥落した時、戦勝を祝って国内 各地で提灯行列が行われた記憶がある。
 その後しばらくは、日本にとって順調な戦況が続いた。しかし早くも昭和17年(以後 年号はすべて昭和)6月に転機となる事態が発生した。ミッドウェー海戦である。このと き日本海軍は航空母艦4隻を失うという大敗北を喫した。当然航空兵力にも大きな打撃を 受けた。

 このときを境に、戦いは急速に日本にとって不利な状況に傾いた。18年(1943) 5月、アリューシャン列島のアッツ島守備隊が全滅(当時は玉砕といった)したのを皮切 りにマキン、タラワ、サイパン、硫黄など太平洋上に浮かぶ島々の守備隊が次々に全滅し た。民間人にも多くの犠牲者が出たと聞いている。
 このような戦況の中でも、軍の最高統帥機関である大本営は、戦果を誇大に発表したり 時には捏造したりして、国民の士気を維持高揚させるための情報操作を盛んに行った。
 その頃の私は完全に軍国少年として愛国心の塊であった。ほとんどの少年がそうであっ た。ラジオから、大本営による戦果発表の予告であった軍艦マーチのメロディーが勇壮に 流れだすと、そのラジオに噛り付いて捏造された戦果を胸を躍らせて聞いたものであった。 同様なニュースをセンセーショナルに載せた新聞も隅から隅まで貪るように読んだ。

 19年(1944)7月にサイパン島が陥落したことは、日本本土にとって極めて深刻 な事態をもたらした。当時の超大型爆撃機B29の基地となり、本土爆撃を一層容易にし たのである。
 さらに20年(1945)3月に硫黄島が陥落するに及んで、日本本土周辺の制空権、 制海権は完全に米軍の手に握られた。
 神風特攻隊が組織されたのはこの頃であった。前述のように制海権を奪われ、艦艇の 大半を失っていた日本海軍が米艦隊を攻撃する苦肉の策として編み出した作戦であった。 これは、航空機に爆弾を装着して搭乗員もろとも敵艦に体当たりするという所謂人間爆弾 であった。勿論生きて還ることはなかった。後に陸軍もこれに倣ったといわれる。
 これによって、米軍の将兵は相当な精神的ショックを受けたと伝えられる。しかし米軍 の抵抗が熾烈になるに伴って次第に命中率が下がり、多くの日本の有為な若者たちが、目 的を達しないままに海に消えるという悲劇を生んだ。
 この特攻機の出撃について多くのエピソードが残っているが、私も時々町の上を赤ト ンボと呼ばれていた複葉の練習機が超低空で何度となく旋回し、やがて左右の翼を上下に 振りながら名残り惜しそうに去っていく光景をみかけた。それは特攻出撃を前にした航空 兵が、故里とそこに住む家族に別れの挨拶にきたのであった。そのことを知った時、私の 胸はいっぱいになった。

 戦況が不利になるにしたがって、我々一般国民の生活にも徐々に変化が忍び寄ってきた。 先ずは食料不足である。いつごろから顕著になったのか記憶が定かでないが、経済統制が 行われて米を筆頭に主食類が配給制になった。次第に米の量が減り、ご飯に大麦がが混じ るようになった。やがてそれにトウモロコシや大根が加わわったりした。最後の混じり物 はサツマイモであったが、遂には米が退場してサツマイモが主役になった。そのうちに他 の食料も不足し、 育ち盛りの私は常にひもじい思いをしていた。
  人々は空き地があれば耕してトマトやキュウリ、ナスなどの野菜を作って主食を補った。 そのほかにもいろいろ工夫をして食べられるものは何でも食べた。イナゴ、泥鰌、さつま 芋の蔓、小麦の粉を採取した後の殻などであった。どれをとっても、今の時代のように旨 いものではなかった。
 夏のある日、あまりの空腹に耐えかねて、海に出て魚を釣ることを思い立った私は、釣 竿を持って出かけたものの、空きっ腹で弱っていた身体に夏の直射日光を浴びて、釣り場 に着く前に日射病(今の熱中症)に罹り、やっとの思いで家に帰ったことがあった。
 時には、山間の農家へ食料の買出しにも行った。統制経済の下では配給以外の手段で主 食類を手に入れることは違法であったので、買出しは官憲の目をくぐっての行為であった。  その頃は貨幣価値が大きく低落していたため農家との取引は物との交換であった。所謂 物々交換である。母の着物が何枚も減って行った記憶がある。
 食料だけでなく、あらゆる物資が不足していた。兵器を作るためとの触れ込みで貴金属 類をはじめ、金属で作られたものはすべて強制的に供出させられた。
 寺の鐘楼に釣られていた鐘さえも消えていった。我が家の墓に取り付けてあった小さな 鉄扉も対象となった。今も取り去られたままである。

 サイパン島陥落から4ヶ月後の19年(1944)11月に日本本土への本格的な空襲 が始まった。最初は高高度から軍事施設や軍需工場などを爆撃していたが、翌20年3月 10日の東京大空襲以来、低空からの無差別の焼夷弾爆撃に転換された。非戦闘員である 庶民も爆撃の対象になったわけである。

   航空機生産工場が集中していた名古屋も当然激しい空襲にさらされ。20年(1945) 5月14日名古屋城の天守閣が燃え落ちた。シンボルを失った名古屋市民は挙って泣いて 悔しがった。

 この頃になると、日本近海を我が物顔で遊弋していた米航空母艦から飛び立った最新の 艦載戦闘機グラマンが低空を飛び回り、一般人にも銃撃を加えたりした。私も怖かった経 験を二度もした。一度は食料の買い出しに行った帰りのことであった。乗っていた田舎電 車が襲われたのだ。電車を飛び降りて逃げたが、さすがにその頃は一般人といえども、子 供を含めてよく訓練されていたので、蜘蛛の子を散らすような逃げ方はしなかった。線路 を敷いた土手を盾にして攻撃を避けたのである。銃撃の音が凄まじく腹に響いたことを覚 えている。脅しに過ぎなかったのかやがて機は去って行った。このとき私は搭乗員の顔を はっきりと見た。なによりも、死者が出なかったのは幸いであった。
 もう一度は、自分の家の前で近所の人たちと雑談している時のことであった。警戒警報 も出ていないのに突然凄まじいエンジン音を響かせてグラマンが襲ってきた。思わず家に 飛び込んで家族5人が一枚の布団を被って震えていた。頭隠して尻隠さずである。その時 も銃撃音の凄さに肝が冷えあがった。
 話が遡るが、こんなことがすでに予測されていたのだろうか19年(1944)6月 頃からいわゆる学童疎開が行われていた。それは空襲による子供たちの被害を避けるため に、あらかじめ安全な地域に分散居住させようとするものであった。東京、大阪、名古屋 などの12都市が指定されたが、その後順次増えて行った。疎開には親類縁者を頼って移 住する縁故疎開と学校ごとに移住する集団疎開があった。集団疎開では家族と別れて先生 や友人たちと共同で暮らすことになり、多くの悲話を生んだ。
 私はその頃、名古屋に戻り、中ノ町国民学校(現在の栄小学校)に通っていたが、一学期 をすごしただけで再び富洲原国民学校に転校しなければならなかった。19年(1944) 8月、名古屋の空襲が始まる直前で6年生の夏であった。

 翌20年(1945)4月、私は疎開先で旧制の三重県立富田中学校に入学した。今の 四日市高等学校である。三重県では名門とされる中学であったので、戦時中とはいえ入学 試験は手抜きなくかなり厳しいものであった。入学後は勤労動員の一貫として、兵隊に混 じって浜辺の砂をかき集めてはトロッコで運ぶ作業に従事したが、その目的は知らされな かった。

 入学して3ヶ月ほど経った頃、私は翌年の3月まで休学することになった。入学試験前 から病んでいた肺浸潤という病に進行が見られたからであった。戦時中のことでもあり、 良薬なく栄養のある食事もできない中で、母親が伝手を頼って苦労して手に入れた卵を生 で飲ませてくれた記憶が強烈に残っている。
 この長期の休学は私にとっては最高の治療法となった。何もせず、何も考えず、海浜の 澄んだ空気を存分に吸い、太陽の恵みをいっぱいに浴びながら砂浜を気ままに歩き回るだ けの生活は、私の身体に十分な力を漲らせた。一年後には見違えるほどの健康体なってい た。自然の力の偉大さを知った。

 その頃はすでに戦争の末期であった。B29爆撃機の大編隊が、連日昼といわず夜とい わず紀伊半島から進入し、伊勢湾上空を過ぎて名古屋に向かうのを見た。やがて地鳴りの ような爆撃音が聞こえ、夜には燃えながら落下する焼夷弾の太い火柱が立った。その下は 阿鼻叫喚の地獄であったのだろう。
 間もなく、四日市の市街地も隣町の桑名のような小都市にも爆撃の魔手が伸びた。 いよいよ国内には安全な場所がなくなってしまうような不安に駆られた。
 私たちはいつでも逃げられるように、夜も衣服を身に着けたまま布団に横たわった。

 沖縄の悲劇が起きたのはこの頃であった。20年(1945)4月米軍が沖縄本島に上 陸した。日本軍は圧倒的な装備の米軍に対し、絶望的な抗戦を続けた挙句6月末に全滅し た。十代の女学生で組織された姫ゆり部隊など十数万人の島民が亡くなったと伝えられる。
 国民が期待した連合艦隊の旗艦であり、不沈戦艦といわれた大和もこの時雲霞のごとく 襲いかかった米機の集中攻撃を受けて沖縄の海に沈んだ。このことは終戦まで一般国民 には報道されなかった。

8月になって、さらに追い討ちをかけるような二つの悲劇が起きた。6日に広島9日には 長崎に原子爆弾が落とされたのだ。新型爆弾と表現された。私には、それが何なのかは分 からなかったが、詳しい情報を伝えない新聞記事から異様なものを嗅ぎ取った。

 8月14日、天皇陛下の午前会議において連合国が示したポツダム宣言を受諾すること が正式に決定された。無条件降伏である。勿論これは後になって知ったことである。
 蛇足だが、その日は盆の中日であり、私の誕生日でもあった。夜になって翌15日に 天皇陛下の話が放送されるので必ず聴くようにとの連絡が町内会長を通じてあった。何の 話だろうかと近所でその話題が持ちきりになった。そしてその夜は珍しく空襲がなかった ことをいぶかった。
 8月15日、確か正午だったと思うが、隣組の数軒の家族が一箇所に集まって陛下の声 (当時は玉音といった)に耳を傾けた。雑音が入ったり音が消えたりして聞き取りにく かったが、なぜか「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び」という言葉だけをはっきりと 聞き取ることができた。その意味の受け止め方は各人各様であった。「敗戦の苦しみを堪え 忍んでくれ」と解釈する者と「戦争続行の苦しみを堪え忍んでくれ」と理解する者とに分 かれた。私は後者の方であったが、ほどなく無条件降伏したのだと分かって、思わず号泣 した。13歳の夏であった。
 翌日、浜辺に出て青い空を仰いだとき、もうそこにB29を見ることはないのだという 安堵感が走り、胸のつかえがスッと下りて行くように感じた。

 こうして長かった戦争が終わり、平穏な生活が戻った。世の中は猛烈なインフレに襲わ れ、その対策の一つとして個人の預金封鎖が行われるなど、大人の苦労は大変なものであ ったはずだが、貧しいながらも復興への道を力強く歩んでいたように思う。

 私は翌年復学して一年間富田中学に学んだ。その後名古屋に戻り、愛知県立第一中学校 に転校した。昔から質実剛健で鳴らしていた学校であるが、戦争末期に軍からの特別の要 請を受けて学業途中で多くの生徒が志願兵として海へ空へ巣立って行った。
 数年前、NHKで愛知一中の校名もそのままに、当時の状況がドラマ化された。軍から の要請を受けて思い悩む学校と生徒の様子が描かれていた。
 戦後復員した彼等は、最上級生として復学した。精神的にかなり荒れているような気配 があり、その迫力に我々下級生は恐れをなしていた。多分多くの学友を失った怒りや悲し みがあったのだろう。
   そのような中でも、日本史を除く各教科はかなりレベルの高いものであった。このこと は我々にとってまことに幸いであった。
 23年(1948)9月、新学制の施行により、旧制の中学校と女学校が併合されて男 女共学の新制高校が誕生した。因みに愛知一中は市立第三高等女学校と併合され、旭丘高 校となった。
 ただ、学区制が敷かれ、居住地によって通学できる高校が決められたため、私はやむなく 市立菊里高校に転入した。急なお仕着せの男女共学に戸惑いがある一方で楽しさもあった。  これと同時に、旧制の高等学校や専門学校は旧制大学に吸収されたり、昇格したりして 新制大学となった。
 私が名古屋大学に入学したのは27年(1952)4月であった。考えてみれば戦後僅 かに7年しか経っていなかった。しかしその頃にはすでに国情は比較的安定し、我々学生 は懐は寂しくても精神的にはかなり豊かに過ごしていたように思う。

 戦争前後の話題は話し続ければきりがない。まだまだ話し足りないとの思いは残るが この辺で一応の終止符を打ちたい。
 戦争を通じて、私はその痛ましさを子供心にも痛切に知り得た。直接戦場に赴いたわけ ではないが、ひもじかった体験、悲しかった体験、怖かった体験は、未だに心にも身体に も染みこんでいる。これらのことを思い出すたび、私は戦争は避けなければならないと 思う。少なくとも、自ら仕掛ける戦争は絶対にやってはいけない。しかし一方では国防に ついても真剣に考えておかなければならない。つまり仕掛けられる戦争への対応である。 現在このことはかなり現実的な問題になりつつある。
 私は仕掛けられる戦争も絶対にあってはならないと考える。それには抑止力を持つしか ない。まずは自らを守る軍備が必要である。さらには志や利害を同じくする国々と連帯し て、戦争以外の手段で相手の力を封じ込めることである。巷で論じられている戦争反対論 にはいかにして国を護るかという視点が欠如していると思われる。徒に感情に支配されず、 冷静に考えることが必要であろう。

 「国破れて山河あり」とは唐の詩人杜甫の詩の一節であるが、私は昨今のような殺伐と した国際情勢の中では「国破れて山河なし」という厳しい考え方をしておく必要があると 思っている。国があってこそ自然があり、家があり、人があり、生活がある。
 我々は詩の世界に住んでいるのではない。銘記すべきことではないだろうか。



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