北 朝 鮮 か ら の 引 き 揚 げ                      


2014年9月2日  野 村 豊 昭



 父親の勤務の関係で、私は小学1年から小学5年までを 当時日本の統治下にあった韓国ソウル(京城)で過した。 小学6年の5月に戦況の悪化に伴い、現在では北朝鮮に属 する江原道北部の農場へ縁故疎開した。母方の祖父がそこ で農場長をしていたからである。父は前年に徴兵されて釜 山の高射砲部隊に配属されていたので、母と我々子供4人 の合計5人で祖父の家へ身を寄せた。B29は時々飛来し たが結果的にはソウルにも疎開先にも爆弾は落ちず、私は 空襲の恐ろしさを知らずに間もなく8月15日の終戦を迎 えたのだが、この日から日本人の立場は一変し、日本への 引き揚げまでにはかなりの苦労を味わうことになった。

 玉音放送は直接聞いておらず、敗戦の事実は大人たちの うわさ話で聞いたのだが、なにしろソ連軍が国境を突破し てあっという間に38度線以北を制圧し、日本人は見付か れば片っ端から捕らえられて北方へ連行されるという。と にかく米軍が占拠している南朝鮮のソウルへ戻りたいが、 鉄道列車には日本人は危なくて乗れないとの情報から、已 むなく徒歩で東方の山道へ迂回してソウルを目指すことに なった。

 幸い父が除隊して帰って来たので家族6人が第1陣とし て9月1日に農場を出発し、12日間の逃避行の末にやっと ソウルにたどり着いた。敗戦前なら鉄道を利用して7〜8 時間で行けた距離を・・である。私たちが居た農場は、ち ょっとした地図帳なら載っている京元線(京城−元山間) の洗浦駅から大きな峠を一つ越えて東へ入った田舎だった。 いま地図で見ると南北朝鮮の軍事境界線(非武装地帯)か ら30kmくらいしか離れていない。
 最初は牛車に衣類や食糧を満載して農場を後にしたので あるが、2日目には早くも沿道の住民に没収されて着の身 着のままとなり、僅かな食糧だけを持って1枚の地図を頼 りに一日中トボトボと歩き続けた。特に母親は当時2歳 の末の妹を背負ったまま懸命に歩いた。ソ連軍のトラック の車列に遭遇しそうになり、慌ててトウモロコシ畑へ逃げ 込んで息をひそめたこともあった。私たちが幼い子供連れ の家族だという同情もあってか、朝鮮人たちから身体に危 害が加えられることは無かったが、父母は軍隊帰りの青年 たちから嫌な言葉を投げかけられたりした。その一方で夜 間私たちが道端で野宿をしていると、夜陰にまぎれてトウ モロコシを差し入れてくれた婦人もあって感激した。
 4日目の夕方に四川という小さな街に着いて宿屋に泊ま った。この街は北漢江上流のほとりにあり、雨で3日間の 足止めを喰らった後、タバコの葉運搬用の川舟に便乗させ て貰って春川(チュンチョン)郊外の華川ダムまで2日半 の長い川下りを体験した。最初の半日はライン下りのよう な急流だったが、その後は流れが全く止まり、行けども 行けども続く長い鏡面のようなダム湖の上を漕ぎ進んだ。 夜は湖畔の宿に泊まり翌朝から再び不気味な静けさの水 面を一日中かき分けて行って、また次の宿で寝た。3日目 の昼頃にダムの堰堤の手前で上陸し、すぐに38度線を越 えた。助かったという感慨にひたりながら春川市内へと 歩みを速めた。
 春川の知人宅に一泊してからソウルに向かい祖父の会 社の寮に落ち着いた。約2週間遅れて農場を出発した第2 陣の祖父ら一行とも無事落ち合うことが出来た。ソウルの 街の雰囲気は米軍の統制下でよく平穏が保たれていた。 朝鮮住民が道端の露天で米や果物などを自由に売っていた。

 10月末に日本への集団引き揚げが組織的に開始され、 ソウル駅から有蓋貨車に詰め込まれて釜山へ移動したが、 これがまた2日間もかかった。30cm四方くらいの窓が 1つだけの暗くて息苦しいような貨車内に手荷物と一緒に 10〜15人ずつ詰め込まれ、列車は1時間か2時間走った かと思うと、駅ではなく田園地帯の真っ只中に停車し、 その度に世話役が我々からお金を集めて運転手に渡すとや っと動き出すということの繰り返しだった。停車中に貨車 から飛び降りて線路脇の茂みでトイレを済ませる必要もあ ったが、いつまた発車するか分からないので、気持ちが悪 かった。
 釜山駅の岸壁倉庫は順番を待つ日本人であふれていたが、 街は幸い豊作の年で路傍で韓国風の餅などをいくらでも売 っていたので、腹を満たすことは出来、数日後に興安丸に 乗船し、11月3日朝に山口県仙崎港の沖合いに到着した。 朝鮮のハゲ山と違って山の緑に鮮烈な印象を受け、日本に 帰って来たという感動が止めどなくあふれて来た。沖合い でハシケに乗り移り、仙崎港の桟橋で米兵から簡単な身体 検査を受けて祖国の土を踏みしめた。

 仙崎の宿屋で一泊し、翌朝山陰線に乗って取りあえず向 かった先は、祖父の故郷である京都府の久美浜町(現在の 京丹後市久美浜町)だった。親戚宅で厄介になり、年を越 してから戦禍で一面焼け野原と化した父母の出身地・名古 屋へ移住した。父の実家の焼け残った離れ部屋で生活再建 のスタートを切り、父は何とか就職先を見付け、母はこの 場所に小さな文房具店を出して、我々4人の子供を大学・ 短大まで行かせてくれた。我々子供も店番を手伝ったし、 日曜日にはたびたびリュックを担いで近郊の田舎に住む親 戚・知人宅へ米や芋などの食糧を買い出しに行った。とに かく食べることに皆んなが必死だった。
                           ( 2014.9.2. 記 )



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