昭和天皇 苦悩の日々〜軍暴走へ抵抗 克明に


2014年9月9日  中山 明俊


 今日(2014.9.9)読売新聞朝刊のトップの見出しである。
 「実録1万2000ページ公表」とある。内容は天皇の間近で仕えた侍従らの日誌「お手元文書(皇室文書)」が引用されている、とある。
 かつての戦争は、われわれ国民にこの上ない苦難を強いた。それにしても腹立たしいのは、時々見かける「東条由布子」(東条英機の孫娘)の論調である。彼女は東条英機を主人公とした映画「プライド 運命の瞬間」をきっかけにして、「1958年をもって戦犯の名誉は回復され、日本の国内法では戦犯なる者はいない」と主張するようになる。さらに、靖国問題でも「A級戦犯の分詞はできません」と堂々と発言している。このように東条英機の戦争指導の誤りによって国民に多大の苦難を与えたことに少しの謝罪もない。どこまで行っても戦争指導の誤りは許されるはずはないのに腹立たしい限りである。東条由布子は1939年生まれで、私たちより5歳年少である。戦後の生活の困窮を見てきているはずなのに、著作物の中に、それへの配慮はいささかもない。常人の発想は通用しない人物なんであろうか。
 終戦前後のことを考えると、こんなことを言いたくなる。

 枕の話はこれぐらいにして、話題を「水谷君の提案の「69年を語り継ごう」」の本論に戻そう。私はこの企画に8月13日投稿している。そのときは69年の歴史にまったく関係しないことを書いている。そのときは仲間はすべて同世代人である。ほぼ同じ体験をしている。その同じ体験を記述した文書がたくさん集まってもあまり面白味はない。それならば、前ばかり見て生きている私としては最近の自分の人生テーマを書いて投稿した。
 しかしその後、10人ほどの投稿があったが、いずれも終戦前後を記した述投稿が出てきた。それぞれ一読の重みは十分にあるように思えてきた。そこで先の文章はオピニオンの方へ移して、改めて戦中戦後の自分の体験を書いて、収まりのいいところで納めよう考えた。

 終戦前後の時期、私のもっとも強く記憶に残っている体験は父と2人で家財道具を空襲による焼失から避難することで、リヤカーに山盛り積んで自宅(名古屋市中村区松原町)から岐阜市矢島町へ運んだ経験である。リヤカーは自転車につながっていたが、荷物が多すぎてほぼ40キロの全行程すべて徒歩であった。
 この実行は昭和20年3月末(何日か覚えていない。それまでは、名鉄犬山線の西春駅に近いところ(現在は西春高校がある近くだろうと思われる)のお寺に集団疎開していた。4月から縁故疎開に切り替えることになり自宅に帰っていたときのことである。
 明日家財道具の運搬をするという前夜、B29による空襲に遭遇した。照明弾を含め焼夷弾が空を明るくしながら燃えた炎が迫っってくるように感じ、布団を頭にかぶり、家を放棄して西の方角へ逃げたのである。生死の恐怖は感じなかったが焼けた炎が迫ってくるような感じなったことを記憶している。空襲は2時間ほどで終わった。B29はすでに早い時間に去っていっていたようにも思えた。

 さて本題の家財道具の避難であるが、当日は快晴であった。早めの朝食を済ませて家を出る。自宅から「栄生」→「枇杷島」へ、ココから東海道線に沿った「岐阜街道」(現在の190号線)を一宮へと進む。稲沢辺りで昼食だったと思うがまったく記憶にない。岐阜街道は一宮で少し西寄りにシフトして木曽川へ向かう。この辺まで来ると荷物を引く速さが徐々に落ちてくる。少し日没が気になりだす。木曽川を渡ると、父は「この後どうするか」を考え始めたようだ。
 結論はどこかへ荷物を預けて家へ電車で帰ることを決断した。笠松町に入ったところで預けられそうな家を探した。軒先が開けた家が見つかり頼み込んだら、快諾してくれた。そこまでは記憶があるが、どうやって名古屋の家へ帰ったかまったく記憶がない。
 翌日やや遅い出発であるが電車で笠松まで行き、岐阜市矢島町へ家財道具を運び入れた。ココは母の実家であり、飴菓子の製造販売をやっていた。私はココが家財道具避難の終着点かと思ったら、さにあらず、3泊後には、また荷物運搬である。今度の目的地は25キロほど離れた岐阜県加茂郡富加町大平賀までである。刃物で有名な関市をとおりさらに6キロ先のところであった。
 到着してわかったがココが縁故疎開をお願いした到着地であった。(ご当地でゴルフをされる人はお分かりだろうが現在はトーシンゴルフクラブができ、その敷地の東端に隣接したところである)つまり、ココで昭和20年3月末から8月15日の終戦までの4か月半小学校6年生私は母と弟と3人で暮らした。

   長々と書いてきて申し訳ない。ココまで読んで付き合ってくださった方には大変に感謝である。
 私が書きたかったことはこの荷物運びの長い距離、、そして40キロ+25キロ(岐阜市内から大平賀まで)の徒歩の苦役を達成した長い時間を「父と共同作業でできたこと」が今になっては大変にうれしい記憶である。この長い時間、父とどんな会話を交わしたか何も覚えていないが、小学生5年から6年にいたる春休みに頼りない私を父がどの程度認めてくれたか。家財道具を運んだことにどれほど手助けになったか。それを聞き落としてしまっていることは残念であるが、私の役立ちを認めてくれていたのならばうれしいことである。今はそんな想いを浮かばせてくれた心地よさを感じていることである。
 ただひとつ覚えているのは、縁故疎開生活、母と弟の3人暮らしが始まる直前、父が私に言った言葉、「お母さんを助けてがんばってくれよ。すこしの辛抱だからな!」であった。
 終戦になってからは比較的早く名古屋へ帰ることができた。幸いにも自宅は戦災を免れていた。父は戦後、勤め先をやめ、自宅で活版印刷の町工場を始めた。中学、高校時代は家業となった印刷業を適宜手伝った。活版印刷は活字を1本ずつ文字列の順に集めてくる手順、組版、機械印刷の工程がある。活字を集める作業と機械印刷の作業は概ねできるが、組版はほとんどだめである。それぐらいの習熟度は上がっていたが、まだまだ跡継ぎはできそうにはならなかった。
 大学へ入学してからは家業の経理事務だけを引き受けて手伝った。
 もし跡継ぎを志していたらどうなったか? 印刷業界の激変に苦労したであろうと思う。それは、印刷業は昭和末期から急速に技術発展が起こり、活字技術からキーボード入力、画像入力システムに変わる。文字通りコンピュータ操作による印刷技術時代に様変わりした。父の家業はその様変わりする印刷業態の激変の直前で終わった。

 私は、今年80歳になった。父は82歳で亡くなった。明治生まれにしては長命だったかもしれない。父の年までならば、あと2年である。この時期になって69年を振り返って、父とのかかわりを思い返すことができ、この企画のご提案に感謝するばかりである。
ありがとうございました。



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