1945年敗戦の前後

2014年10月18日  水谷研治


1 人手不足
@女子挺身隊
  1941年12月に始まった強大国アメリカ、イギリスをはじめ多くの国との大戦争は、その前から始まっていた中国との戦争の続きであった。
  総力を挙げての必死の戦争であった。直接戦闘に参加したのは男達である。若者ばかりでは不足する。中年も動員された。
  男性がいなくなると重要な軍需工場も生産ができなくなる。国家総動員で対応した。14歳から25歳までの女子挺身隊が慣れない工場生産に携わった。
  国のために懸命に働いた女子挺身隊を従軍慰安婦と同一視することは絶対に許されない。
  12歳以上は労働力として働いた。中学生・女学生が軍需工場で働き、アメリカ空軍の爆撃で大勢が亡くなった。豊川の海軍工廠や愛知時計電機など多くの例がある。

A新聞配達
  人手不足はあらゆる部門に及んだ。その穴埋めに小学生(国民学校生)まで動員されるようになった。
  5年生が交代で新聞配達をした。大勢で分担したため、狭い地域を受け持っただけである。それでも間違いなく配達するのは骨が折れた。
  鈍な小生はたびたび間違え、過不足が生じて叱られた。雨の日は抱え込んだ新聞紙を濡らさないように苦労した。今と違い、紙が不足して貴重品であった。新聞に折り込み広告はなく,紙不足のために4ページから2ページへと減ったように思う。
  働くことの大変さを学んだのがこの時である。今でも新聞配達の人には「有難うございました」と心からお礼を申し上げている。
  今、新聞の配達だけではなく、あらゆる働きに対して感謝の気持ちを持つのは、当時の体験からであろう。それは決して悪いことではない。

B農作業
 人手不足は農家も同様であった。
  4年生の小学生が時々農業の手伝いに駆り出された。それが次第に増えていった。6年生になると授業を止めて農作業に出かけることが多くなった。
  勉強が嫌いな小生は大歓迎であった。田植えから田の草取り、稲刈り、脱穀まで一通りの仕事をやった。もちろん満足にできたはずがない。
  秋には田を掘り起こして畝を作り、その上に麦を蒔き、出てきた芽が伸びてきたところ麦踏をした。春には高く盛り上げた田の畝へジャガイモを植えた。
  上背があり、体力が強かったため、このような力仕事は得意であった。農家の友人には、とても及ばなかったが、備中鍬や鎌などの農機具の使い方を覚えることができた。

2 食糧増産
@運動場で薩摩芋
  食糧難は戦後さらに酷くなった。食糧の増産は最大の課題であった。あらゆる空地を利用した。小学校(西枇杷島国民学校)の運動場を畑にした。
  踏み固めた運動場を掘ることは難儀であった。鍬では歯が立たない。鶴嘴が必要であった。しかし鶴嘴はなかった。あらゆる道具がなかったのである。
  鉄は軍艦、戦車、大砲など武器を作るために使い果たしており、家庭で使うための道具などは新しく作れるはずもなく、古い道具を修理して使う以外になかった。
  大勢で苦労して小学校の運動場にやっと畝を作り、薩摩芋を植えた。
  戦後2年ほどしたところで、今度は畑にした運動場を復活させることになった。明倫中学校の広大な運動場を学年別に割り付けて、畝を平に均し運動場に作り直した。
  作業は結構大変であった。この時も体力のあった小生は活躍することができた。勉強がだめであった分、取り返せた気分であった。

A畑を作る
  食べ物がないことは悲しい。自分で作り出さなくてはならない。空地を探しては、作物を植えた。家の周囲は当然である。庭に南瓜を植えて、蔓を屋根に伸ばし、たくさんの南瓜を実らせて、長く食いつないだ。水っぽい南瓜であったが、味よりは量の確保が優先した。
  野菜ばかりでは栄養が足りない。蛋白質の補給として大豆が良い。父が中心になり、道の両側50メートルほどを耕し、一晩で大豆の種蒔きをした。この大豆が貴重な栄養源となった。
  畑が欲しかった。畑を作った。セメント置き場が空いていた。そこへ土を運び、盛り上げて畝を作った。それは重労働であった。土は重い。それを運ぶ車はない。手で運ぶ以外にない。
  体力があるといっても小学生である。本当に大変であった。雑木林を切り開いて開墾をする話がある。木の根を掘り起こして畑にすることの苦労は想像を絶する。
  新しい畑へはいろいろな野菜を植えた。良くできた。助かった。
  栄養補給の意味もあり、秋になると蝗取りに田圃へ出かけた。それを茹でて干し、粉にしていろいろな食糧に振りかけて食べた。
  不器用な小生にできることは少なかったが、できる限りの手助けに忙しかった。

3 戦争の傷跡
@焼け跡は廃墟
  空襲に備えて防空頭巾が作られた。最初は恰好を気にしていたが、すぐに切り替えられ、綿を大量に使った頑丈なものに変わった。
  それが命を救う場合がある。明倫中学2年生の兄が学徒動員で働いていた大隈鉄工所で空襲に合い、油脂の欠片で防空頭巾を焼け焦がせて帰宅した。分厚い防空頭巾のおかげで無事だった。
  空襲が続いた。夜間空襲はサーチライトがアメリカのB29を追いかけて照らし出し、綺麗であった。当然のことであるが、その下は焼夷弾による地獄であったことは言うまでもない。
  名古屋市の郊外に住んでいたため、いつ空襲に遭うかわからない。近所に焼夷弾が落ち、小学校の一部も燃え落ちた。父の大反対を押し切って、大切な荷物を少しずつ四日市市西町の蔵へ運んだ。
  幸いにも西枇杷島の我が家は空襲に遭わずに済んだ。ところが四日市は一晩の空襲で一挙に壊滅した。父の家も母方の家も焼失した。
  翌朝すぐに出かけた母は夕方になって、憔悴しきって帰宅した。声がなかった。我々はすべてを失った。
  幸運にも親戚一同、命だけは無事だったことが、少し経って分かった。
  焼け跡は惨めである。何も残っていない。広大な地域が一面何もない。そこに再び人が住むことができるとは到底思えなかった。

A8月15日
  この日は永遠に忘れない。
  我が家のラジオが壊れていた。隣の家に大勢が集まって玉音放送を聞いた。しかし正直に言って小生には意味は分からなかった。
  大人たちの中で、「宣言を受託した」ことを採り上げて、戦争が終わったと言う人がいた。そして間もなく、それが本当であることが分かった。
  裏の三菱航空機へ勤めていた大勢の人々が一斉に引き上げて帰って行った。誰も無言であった。   学童達が小学校へ集まった。いつも元気な担任の一柳先生が教室で号泣した。どうすればよいか誰も分からなかった。
  それまでアメリカに勝つことだけを目標にして頑張ってきた我々にとって、その目標を一挙に無くした場合の虚無感はすごい。
  しかし生きていかなければならない。目先の自分の問題に集中する以外にない。それで良い、それだけで良いと言われるようになったように思う。
  大義名分を唱えても誰も相手にしてくれない。価値観のよりどころが無くなった。

4 国のために犠牲になる
@日本の戦死者は犬死か?
  「戦争はすべて悪である」との考え方が浸透していった。戦争に携わった人が悪へ加担したように言われ続けた。抗弁の余地がなかった。
  どこの国でも、国家のために犠牲になった人に対しては手厚く弔い、最高の敬意を払う。我が国は戦後その常識をなくしてしまった。
  日本の戦死者は何の貢献もしなかったのであろうか?
  英霊は国の将来、残る国民の幸せを願って亡くなったのではないか。
  国のために、将来のために、という気持ちは多くの国民に受け継がれていたように思われる。
  それこそ世界の歴史に残る戦後の大発展の基本となったのではなかろうか。

A犠牲になる人なしで社会は成り立たない
  それぞれの人が自分に最も有利になるように振る舞えば、結果として社会全体として最も望ましい姿になるとの考え方がある。
  戦後の社会がこの前提で成り立ってきたように思われている。その結果が大発展をもたらしたと考えられているかもしれない。
  そのような考え方で教育が行われてきた。その結果として多くの国民はそれ以外の考え方を知らないかもしれない。
  しかし、どのような社会であっても、社会のために犠牲になる人がなくて社会は成り立たない。一時的には良い結果が出る場合があるにしても永続性がない。発展性がない。発展が続かない。

B将来のために!!国のために!!
  将来の国民のことを考えることは、現在の我々の重要な責務である。
 今の自分の幸せを考えることは安易である。わざわざ言う必要はない。我々が強調するべきことは、多くの周りの人々、全国民のことであり、将来の全体の繁栄であるべきである。
  この考え方が受け継がれれば、どのような事態になっても恐れることはない。困難を乗り越え、遠い将来の発展を目指して、雄々しく立ち向かうことができるからである。
  これこそ、すべての考え方、行動の基本にするべきだと思っている。



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