貴 重 な 卵

-1945終戦前後の体験記録-

2014年8月15日  水谷研治


 卵は栄養満点である。誰もが欲しがった。
 その卵を求めて11歳の筆者は4kmの道を歩いてお百姓さんを訪ねた。1945年8月末のことである。
 戦争直後、我が家は危機を迎えた。
 母がジフテリアで倒れた。しばらくして中学2年生の兄が罹患して高熱を発した。4歳の弟は健気であったが役には立たなかった。父は軍隊からまだ帰って来なかった。
 苛烈な戦争遂行のために国中がすべてを犠牲にしていた。多くの若者が戦地で海で命を無くした。
 アメリカの空襲で多くの人々が死んでいる。それは広島と長崎だけではない。 1945年3月10日未明10万人が死んだと言われる東京大空襲をはじめとして、中小都市に至るまで空襲に会っている。筆者の出身地の四日市も一晩で壊滅し焦土と化した。
 鉄もアルミも材木も燃料もあらゆるものが戦争のために使い尽された。主な工場は爆撃で破壊され、原材料もなく、何も生産することができなかった。
 あらゆる物がなくなっていた。機械や道具はもちろんのこと、住む家が空襲で焼かれ、着る物がなく、食料を必死に求める毎日であった。
 家の周りの狭いところへ植えた南瓜が貴重であった。それに黄粉と称して大豆を粉にしたものを砂糖なしで掛けて一食としていた。
 誰もが栄養失調であった。病に対する抵抗力がなく、少しでも栄養のあるものをと誰もが探し求めていた。
 ジフテリアへの自分自身への感染を心配しながらも、母と兄の回復を願って卵を求め筆者は知り合いのお百姓さんを訪ねた。
 炎熱下、自分で編んで作った草履を履き、尋ねたお百姓さんは曰く「今はない。明日またいらっしゃい。」
 手ぶらでとぼとぼと帰る以外になかった。
 言われた通り、翌日出掛けた。結果は同じであった。同じように言われた。その翌日も出掛けた。また同じであった。
 鶏がたくさん飼われていた。卵がないはずがない。しかし、卵は貴重で、誰もが欲しがっており、筆者のような子供に分けてやるわけにはいかなかったことは良く分かっていた。
 「自分が食べるのではなく、重病の母と兄を救うために卵が欲しい」と言えば、きっと配慮してくれたと思われる。しかし頑固で弱みを見せたくなかった筆者はそれが言えなかった。(この性格はその後もいろいろな場面で筆者が損をする要因になっている。)
 結果として1個の卵も手に入れることができないままに10日余のお百姓さん通いが終わった。
 幸いにして、母も兄も回復に向かっていた。
 今でも筆者にとって卵は大変な貴重品である。



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