敗戦前後の私の生活史(2)


2014年9月1日  黒川孝雄(四方ゼミ)



  私の家は、地主であり、多い時には百町歩の小作地を持つ寄生地主であった。曾祖父の時代に、土地の収益を産業に投資して産業資本家への道に転じた。明治27年(1894)に、津島紡績株式会社(資本金十万円)が設立され、黒川一族で相当な株式を取得して、大株主となり、祖父は監査役(後に取締役)に選出された。
  産業資本家に転じたとは言え、まだ十町歩程度の地主であった。秋になると百俵以上の米が、我が家に運び込まれることは記憶している。
  この地主制度は、戦争の最中でも継続し、米に不足した経験はない。また約1反(300坪)の畑も家の前にあり、野菜は豊富に収穫できた。
  要するに、米、野菜に苦労したことは一度もない。常時、白米を食べていたのはご先祖様のお陰であった。
  祖父は、棉紡績は大資本に集約されると判断し、明治39年(1906)に、津島紡績を三重紡績(後の東洋紡績)に分譲し、その資金を基に津島織布(おりふ)株式会社を設立し、社長となり、父も祖父の跡を継いで津島織布の社長であった。(津島織布はマッサージを製っていた)  従って、戦前の我が家は、地主としての財布と、紡績会社の社長の財布と二つの財布を持つ家であり、経済的には恵まれた家庭であったと思う。

  しかし、父が昭和20年11月に、持病の心臓病が悪化して急に亡くなった。また、父が最後まで信じていた地主の地位も、戦後の占領軍政策で、不当に安い価格で小作民に売却することとなり、そこから我が家のどん底生活が始まった。十余年に亘り、現金収入が無くなり、所謂売り食い生活が始まった。
  農地解放については、当時は、占領軍を憎んだ。何故、正当な売買で得た土地を、タダ同然の価格で離さなければならないのか、不当であると思った。しかし、経済学を学び、不在地主という言葉を知り、地主としての土地の集積が松方デフレの明治15年前後から始まり、資本主義国として農民を不当に圧迫した歴史が寄生地主制度の始まりであることを知り、かつ戦後の民主化と国内市場拡大のために農地解放は絶対必要であったと思うようになった。しかし、この農地解放が、タダ同然の価格で取られたとの思いは強く、1町歩程度の小農を沢山作り、少なくとも減反政策を始めた昭和45年(1970)から、大農育成制度に転換すべきであったと思う。日本の農政に対する見解は極めて厳しい意見を、今でも持っている。

  父は戦前から、「インフレーション来たりなば」という経済書を良く読んでいた。ドイツの第一次大戦の敗戦に伴う膨大な戦後賠償や、生産能力の破壊から極端なインフレが起こり、例えばピアノ1台とタバコ1本が交換される写真が子供心に強く残っている。
  まさか、日本の敗戦は予想していなかったと思うが、「カネからモノへ」への転換は、戦前から強く主張しており、相当に実行をしていたと思つていた。
  昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言を無条件受諾して、第二次世界大戦は日・独・伊の大敗で終わった。
  大変なインフレと食糧不足で、戦後の日本はかって無い食料危機に見舞われた。外地から引き揚げる人々は、日本政府に見放されて、法外な苦労を強いられた。
  その中で、黒川家は、カネ(給料)は無いが、食糧には不足しないと言う奇妙な生活を送っていた。
  考えてみれば、これから十余年は、賃金なしで、一家6人が暮らしていたのである。
  それは売り食いであり、世間では筍生活と呼んだ。
  お抹茶の茶碗が消え、鉄瓶が無くなり、陶磁器が無くなっていった。なんとか、5〜6年は、そんな財産の切り売りで過ごせた。

  私は、父が「インフレーションが来る。これからは貯金ではなく、実物資産の時代だ」と何時も言っていたのに、その実物資産がお茶の道具や、陶磁器では無い筈だと思った。蔵には布団入れの長持ちが沢山あった。何か実物資産が隠れているのでは無いかと、せっせっと調べた。父の心臓病による死亡は突然であり、資産を聞き出すことも出来なかったのである。   私の予想は的中した。蔵の中の長持ちの中から5KG銀が百本以上出てきた。それは、私が大学1年生の秋(1952)であった。母に銀の延べ棒が百本以上あり、売れば大変な金額になる筈だと話したら、母は「金の延べ棒がある筈だ。金を買うという話を聞いたことがある。」と言い出した。それから、蔵の中を総当たりして、金の延べ棒を探したが、残念ながら、発見できなかった。金は父が売ったようであった。
  銀の5KGを売りに行くのは、事の成り行きから私の仕事となった。既に名古屋の栄町には貴金属商が店を出していた。銀3本(15KG)を持参して「売りたい」と申し出たら、最初は随分聞き質され、最後は名古屋大学の学生証を見せて、無事売ることが出来た。銀15KGで、約2ケ月の生活が出来ることが分かった。それから2ケ月に1回、貴金属商に足を運んで、現金化することが私の仕事となった。
  十余年の生活費は、男兄弟2名は国立大学を卒業させる費用と、女姉妹2名の結婚の費用を併せて、多分時価に換算すれば1億円程度の費用になったと思う。父の「インフレーションが来る」という予測は思いがけない結果となった。
  裕福では無いが、決して貧乏とは言えない生活を10年以上に亘り、それほど大きな不安もなく送れたことは、父の残した「大いなる経済観」であった。
  戦前に銀を購入することは不法な話では無かった。「現金・預金は当てにならない、信頼できるのは実物資産のみ」という父の信念で、恙なく大学を卒業できた。

  父は、私達に「明治・大正・昭和文学」という春陽堂の全60巻の文学全集と、平凡社の「世界美術全集」全30巻を残してくれた。兄弟4人だから、皆で読んだけれども、結局私が独り占めする結果となった。中学3年間で文学全集の全冊を、多分十回程度読みこなし、近現代日本文学に通ずるようになった。これは大きな財産となった。本を読みたくても、本が無い文化飢餓時代は、結局手に持っている本を読みつくすこととなった。飢餓時代は良いものである。
  美術全集で興味を持ったのは、ルネッサンス期の作家であった。印象派は、殆ど興味がなかった。ましてピカソ・マチスは理解も出来なかった。仏像も抹香臭いと思った。しかし、この「世界美術全集」に親しんだことは、後に大きな影響を受けることとなった。
  42歳という若さで亡くなった父には感謝の気持ちで一杯である。せめて後5年長生きして、インフレ時代に、どのような経済行動をしたかを是非見たかった。父の短命な病死が残念である。



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