敗戦前後の私の生活史(1)


2014年8月25日  黒川孝雄(四方ゼミ)



 私は愛知県海部郡永和村(現愛西市)に生まれ、22歳まで、そこで生活した。戦争中には、疎開や引き揚げの経験は全くない。そう言う意味では、平穏な生活であった。昭和18年3月(小学校4年生3学期)に、父は私と兄に蜜蜂一群を買ってくれた。甘味不足の戦時下で、思いがけないプレゼントであった。蜜蜂の一群は「幾らか」と聞いたら、父は「1千円」と答えた。当時、家を新築すると2千円から3千円と聞いていたので、現在の貨幣価値に換算するならば1千万円程度ということになる。子供へのプレゼントとしては高すぎる価格であったと当時から考えていた。
 父は盛岡高等農林卒であり、農業については詳しかった。あまり細かい説明は受けた覚えは無いが、我が家には、養蜂に必要な噴霧器、巣箱、手動分離機は揃っていた。兄は元来、長男のせいか余分な仕事はしない性格であり、何時の間にか養蜂は私の専門の仕事になった。

 庭に一群の蜂箱を置き、ナタネ、サクラ、トチノキ、アカシア、ヒマワリ等が密源であり、1回の収量は1升(1.8L)、年間には1斗(10升)採れた。
 戦時下の糖分不足は、話にならない程逼迫していた。私は蜂蜜が、我が家の糖分を賄うだけでなく、莫大な交換価値を持つことを知った。即ち、蜂蜜は抜群の交換能力を持っていたのである。近所の人や、遠く名古屋からも話を聞きつけて蜂蜜を求めて、いろんな人がやってきた。売るのではなく、物々交換の手段として、高額な貨幣の役割を果たした。
 最初、一群であったが、2,3年のうちに4群にまで分蜂し、年間4斗の蜂蜜にまで増殖した。限界効用逓減の法則があることは後に知ったが、不足する甘味に対する願望は何物にも替えられない効用を発揮し、私には、限界効用逓減の法則は働かなかった。
 ミツバチを飼って感じたことは、愛情を持って接すれば、ハチも十分その恩義を感じて、より一層ミツを集めてくれることであった。秋の終わる頃には、花が無くなり、蜜蜂もエサが無くなる。そんな時には、ミツを薄めて、飲ませてやれば、翌年は一層ハチミツ収穫に励んでくれるのである。

   「欲しい物は、何でも手に入る」ということを身に沁みて感じた。空気銃でも学生服でも、ズック靴でも、欲しい物は何でも交換で入手できた。私は、王侯、貴族になった気分であった。
 しかし、それは所詮一時の夢であった。昭和22年(1947)頃にキューバー塘が配給されるようになり、甘味市場は激変した。もはや蜂蜜が占めていた甘味料市場は、キューバー塘に席巻され、往年の夢は消えた。正直なもので、蜜蜂に対する愛情はいっぺんに冷め、ミツ絞りすらしなくなった。4群の蜜蜂は、荒れた巣を嫌って逃げ出してしまった。
 ハチでも愛情を示さなければ、逃げてしまう。甘味料不足マーケットから充足市場に転換するや、ハチミツの価値は一変した。王侯・貴族の夢は一夜にして冷めた。



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