= 飛行機に関する思い出 =

2014年9月30日  岸 公昭



  戦時中の飛行機に関する思い出は、鮮烈である。物心がついた頃、動くものを見た最初が空を飛ぶ物体=飛行機だった。かなり高いところを飛ぶので、単発だったことだけでしか憶えていない。生まれ育ったのは、三重県の玉城町の北端にある寒村だった。当時、数キロ北に陸軍の明野飛行学校があり、訓練機がいつも飛んでいた。明野飛行場を西北に飛び立った機が陸地に向かって旋回し、南東に飛ぶ。その直線飛行コースの下に住んでいた。小学校に入学し、やがて国民学校に改名された頃、遠足で明野飛行場に行ったことがある。教官らしき兵に案内され、間近に何機か見た。何れも単発の戦闘機,訓練機だった。

T 墜落
  その後1年ほど経ったころ、「近くに飛行機が落ちた、見に行こう」と仲間が誘ってきた。幾つかの松林と雑木林を抜けた隣村の畑に飛行機が墜落し、轟々と炎上していた。そこから2キロ東にも墜落した機があると言う。飛行士は落下傘で降りたらしく無事で、後、炎上する機を見に来ていた。空中戦の訓練中に接触したらしいと聞いた。

  戦争が激化してから、わが部落の近郊500メートルの畑に1機不時着した。直後すぐ、仲間と見に行った。畑の中に機首からつっこんでいる戦闘機があった。メッサーシュミット型の先端の尖った戦闘機だった。炎上していなかったから、機体に触ることもできた。機首の下の掘れた穴に燃料がたまっていた。ガソリンや灯油の臭いはしなかった。松根油系の燃料だっただろう。エンジンが止まり滑空して不時着したようだ。兵士が来て、穴にたまった燃料をくみ出していたことを憶えている。やがて解体されたが、現場は見ていない。近づくことを禁止されたからである。
  なお、田舎では16年頃、電力は灯数と明るさ(00燭光と表現した)の契約性だった。我が家では、16燭光2灯のみ。灯油ランプをよく使っていた。また、農家では、脱穀の軽油発動機が普及しており、ガソリン発動機の試運転もあった。

  敗戦直前、我村の上空で敵機との激しい空中戦が勃発した。当時、学校へ通えず、村の集会所で合同自習をしていた。あわてて、防空壕に入り、銃とエンジンの轟音に震えていた。やがて、激しい衝撃音、墜落したらしい。敵機が撃墜されたとおふれがあった。静かになったので,仲間が連れ立って、墜落現場へ行った。通わなくなった通学路の近くの田の中に墜落炎上していた。我が軍の飛行機だった。飛行士の遺体に青いシートがかけられていたことを記憶している。

U 掩体林
  戦時、各地の飛行場に掩体壕が作られたと聞いている。明野飛行学校では、近隣の松林に飛行機を隠すことが行われた。正式な名称は知らない。私の造語である。

  戦争末期、燃料不足の上、敵の艦載機の銃撃で被害が多発したので、急遽、近くの林に隠すことにしたらしい。ある日突然、大勢の在郷軍人が現れ、松林を切り開き、通路と掩体する場を整地した。一番近い掩体林は、我が家からせいぜい200メートルの所だった。敗戦直前、飛行機を引いて隠しはじめたのである。
  私は、村社で行われた上級生のみの祈願行事の後、単身帰宅する途中、枝で巧妙に覆われ隠された飛行機を見た。誰もいなかったが、すぐにその場を離れた。軍事機密に関わること、敵機襲撃をおそれたからである。
  数日後、また1機引っ張って来るのを見た。我が家から500メートルくらいの松林に運び込んで行った。それから間もなく敗戦となって、運び込みは停止された。もし、戦がもう少し長引いていたら、我が家の近くに数機が隠され、敵機の攻撃で命がなかったかも知れない。

  翌年、中学校に入学し、バラックが立ち並ぶ宇治山田市(今の伊勢市)の学校から歩いて帰ったとき、偶々、かの松林を通った。空地に夥しい飛行機の部品が散乱していた。掩体林に隠された飛行機は、進駐軍の指示のもとで、現地で解体されたと聞いている。
                                          了


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