名大望洋会HP寄稿 : 伊東正道(31年卒/酒井ゼミ)

終戦前後の体験談 〜疎開中の思い出話〜


2014年9月2日  伊東正道(酒井ゼミ)



 「終戦前後の体験」といっても、私の場合は同じ世代の多くが 味わった「集団疎開」の苦労話や、「外地からの引き揚げ」といった悲惨な体験を持ち合わせていない。
 日米開戦当時私は小学校*の2年生で、住まいは名古屋だった。しかし4年生の春に「縁故疎開」して、「戦争が如何なるものか」を体験しないまま、6年生の夏に「終戦の日」を迎えた。
* 正確には「国民学校初等科」
 私にとっての戦争体験は「疎開生活」そのもので、わずか4年余の間のできごとだった。
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戦時体制の記憶 : 私が物心ついた頃、すでに日本は「支那事変」のさなかにあった。これが英・仏・蘭の植民地支配に挑戦する「大東亜戦争」へと発展し、更にアメリカに宣戦して「太平洋戦争」にエスカレートした。
 男の背広が国民服に変わり、女の装いからワンピースやスカートが消え、袴やモンペ姿になった。男子は中学生になると足にゲートルを巻き、模擬銃を肩に軍事教練を受けていた。
 石油は軍用が優先し、民間のバスやタクシーが薪炭ガスの発生炉を背負って走り、金属の供出が始まって、学校の校庭から二宮金次郎の銅像が消えた。米や麦が配給制になり、その他の消費物資も統制下に置かれ、砂糖・油・衣料品が点数制になり、「欲しがりません!勝つまでは!」のポスターが街角を埋めた。

防空演習の思い出 : 都会では、男子はヘルメット・女子は防空頭巾を用意した。各戸の門前に水槽と砂袋が置かれ、空地に防空壕が築かれた。家庭の主婦も、バケツリレによる消火や、砂袋による焼夷弾処理の訓練に駆り出され、子供は退避訓練に参加した。
 電灯に黒い頭巾を被せ、硝子が爆風で飛散しないによう紙のテープを縦横に張った。窓に遮光カーテンを引いて消燈し、警報が解除されるまで蝋燭の灯を囲んで息をこらす「灯火管制」を体験すると、今国が戦時下にあることを実感させられた。

初の本土空襲を体験 :私が小学4年生の春のことだった。太平洋上の航空母艦から発進した16機のB25が本土上空に侵入し、東京〜神戸間の主要都市を爆撃したが、そのうちの2機が名古屋に飛来した。
 けたたましいサイレンの音に何事かと屋根に登ってみると、米軍の標識つけた双発機が頭上を通過するのが見えた。対空砲火の音は遠くでポンポン鳴るが迎撃する友軍機の姿は無く、敵機は悠々と飛び去った。
 「特攻」といえば日本が編み出した捨身の戦法だが、この奇襲攻撃も、真珠湾攻撃や日本の潜水艦による米本土砲撃に対抗すべく、米国陸海軍が志願者を募って決行した、生還を期し難い「特攻」作戦だった。

父の郷里への疎開 : これを機に父は名古屋の家を引き払い、私たちを家財もろとも父の郷里へ疎開させた。そこは知多半島中部の農村で、おかげで私達は戦禍にあうことを免れた。
 都会の学校から田舎の学校に転校し、言葉や日常習慣などの違いに最初は戸惑った。しかし田舎の子供は純朴で、異質な都会からの転校生を、すぐ仲間にしてくれた。
 彼らと一緒に野山を駆け回り、小川でザリガニを捉まえて喧嘩させたり、雑木林で捕えたカブトムシやクワガタに相撲をとらせたりした。蜂の巣を燻して親蜂を追い払い、蜂の子を取って食べるなど、無茶な冒険にも加わった。彼らについて森に入れば、季節に応じてグミやアケビや山桃が、養蚕の季節には桑畑の甘い桑桃が食べ放題だった。

自給自足の生活 : 郷里には父が祖父から分与された田畑や家作があり年貢米も入るなど、生活の諸条件に恵まれていた。私自身も、「自給自足」の生活を通して、都会では得られない様々なことを学び、そして体験できた。
@ 父の実家は代々の医者で、祖父の時代に遠路の往診に使用したポンポン船を持っていた。私たち兄弟は毎年夏休みを実家で過ごし、この船の扱いに馴れていた。
 休日には日の出とともに船を出し、日差しが低いうちは浅瀬でキスやメゴチなどの小物を漁り、日が高く昇ると沖へ出て、ススキや黒鯛などの大物を狙う。満月の夜は海中を浮遊する蟹を手網で掬い、翌日はこれを餌に蛸を釣る。
 季節によって変わるが、漁果はバライエティに富んでいた。食べきれない漁果は干物にして保存する。これを知り合いの専業農家にお裾わけすれば、小豆や糯米に化けて返ってきた。
 釣具など売る店もなく、釣り針と道糸以外の全ての漁具が手作りだった。粘土で鋳型をつくり、鉛管を溶かして流し込み、釣り糸につける錘を鋳る。養蚕の季節には、蚕の腹から取り出した「絹糸腺」を引き伸ばし、テグスを自作した。
A 裏庭で胡瓜・茄子・トマトなど季節の野菜を栽培し、毎日の食前を賑わせた。されに小作人が出征して荒れた畠を耕して、保存の利く各種の芋や、漬物にする大根、・白菜を作付けするなど、米・麦以外の農作物は全て自給した。
 主食の米は小作人から「保有米」の年貢が入り、不自由しなかった。
B 鶏は雌の雛を養鶏農家から買って来る。鶏の世話は妹二人がするが、卵を産まなくなった鶏を〆る時は私の出番。暴れる鶏の首を捻って出刃で首を落とし、羽毛を毟り逆さに吊るして血抜きする。これをさばくのは母だった。
C 運動靴が擦り切れれば、稲藁を打って縄を綯い、草鞋に編んでこれを履く。裏の藪から伐り出した孟宗竹から箸や匙を削り出し、虫籠を手初めに、実用的な笊や篭まで自分で編んだ。

戦局悪化の気配 : 昭和十九年の暮れから名古屋南部工業地帯への空爆が始まった。知多半島は名古屋へ爆撃に向かうB29の航路下にあり、空襲警報が発令されると生徒は自宅へ帰された。よく晴れた日は、高々度を編隊を組んで飛行する灰色のB29が見え、これを迎撃する日本の戦闘機の蚊トンボのような機影がキキラキラ光って見えた。
 こうした折に裏庭で土いじりをしていたら、シ ャーッという空気を切り裂くような音がして、何かが目の前の地面に突き刺さった。上空での戦闘の流れ弾が落ちてきたらしい。これがもし身体に当たっていたらとゾッとした。
 昭和20年の3月になると空襲が夜間に変わり、焼夷弾による市街地の無差別爆撃がはじまった。空襲と聞いて海岸に出ると、名古屋の方角の空がうっすらと赤かった。6月には対岸の四日市が空爆されて、海軍燃料廠の石油タンクが爆発炎上し、夜空を真っ赤に染めた。この光景を目の当たりにしても、私にとってはまだ対岸の火事だった。

機銃掃射を体験 : 7月に入って浜松が艦砲射撃を受けたという噂が流れ、米軍の艦載機が飛来して鉄道の列車や道路を走る車両が銃撃されたと聞いた。こんなさなかに私達兄弟は船を沖に出し、呑気に釣りを楽しんでいた。
 キーンという飛行機の急降下音に後ろを振り向くと、私達の船をめがけて一機の戦闘機が突っ込んできた。グラマンだ!と気付く間もなくダダダ・ピュピュピューンという音とともに水しぶきがあがり、慌てて海に飛び込んだ。幸い二人は共に無事、船も無傷だった。
 わずか一瞬のできごとだったが、これが私が「戦争の恐怖」を味わった唯一の体験となった。

やがて終戦に : 当時父は海軍の直轄工場に勤め、戦局の実態を派遣将校から聞いて知っていた。父は陸軍が「本土決戦」を決意したと聞くや、私達を飛騨の山奥に疎開させることにした。私達は家財をその儘に、衣類や食料・当座の必需品を取り纏め、いつでも出発できるよう準備して連絡を待っていた。
 ところが暫くすると敵機の来襲がはたと止み、なんとなくあたりが静かになった。ラジオをつけても音楽ばかりが流れ、情報が何も入らない。そうするうちに8月15日が到来し、正午の「玉音放送」で終戦を知った。私が小学6年生の夏のことだった。

疎開先からの引揚 : ほどなく父は、名古屋に電車で通勤・通学できる知多半田に、仮の住まいを用意して家族を呼び寄せた。しかし私は父の実家に寄宿して、小学校を卒業するまで現地にとどまった。  私の母校だった「小鈴谷南小学校」は、市町村合併の余波で廃校となり、今は廃墟となっている。
                             〜 完 〜
                         2014/09/02  伊東正道 記


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